むらに総有の山林や藪や採草地があり、そこに松茸や筍が生えたり、材木が生産されたりするとなおさらであるが、その管理や利用の方法はむら全体で相談してきめておかなければならず、とりわけその総有や利用についての権利と義務を明確にしておく必要があったし、いまもなお必要なむらがある。
長谷むらには昭和三十年一月二十六日付の「部落有財産に就ての定め」があり、九カ条からなっていて、昭和二十五年一月一日にさかのぼって実施することになっている。直接には部落有財産からの収入の余剰金分配の問題が生じたことと、間接にはおそらく西谷村の宝塚市への合併にさいし、それまでの不文の法を明文化しておく必要から、この「定めしが設けられたのであろう。部落有財産保存の意義について、その第三条は、「部落有財産は部落先覚者に依って、将来部落の維持経営を容易ならしめる為に保存育成せられたものであって、吾々も亦爾後(じご)この精神を継承し維持経営することを再確認する」としるし、部落有財産を具体的にあげている。
すなわち第一条に、神社・寺院・境内地・部落が管理する田畑・宅地・建物・山林原野(個人名義を含む)・溜池・河川・道路等としるされている。この「定め」は、財産の総有権を得るための条件を明確にすることがひとつの眼目であるが、第二条の一につぎのようにいう。「長谷部落内に本籍を有し定住三十年以上に達し、部落の各種慣習の式垂れ及び諸行事の義務を履行したる場合に於て、財産の権利を有する部落民の承認を得て部落有財産に対する権利が生じる。各種慣習の式垂及び諸行事とは、部落協議費の負担・神社寺院の修理・植林の手入・伐採の出役・溜池、河川・道路の改修築、日役、御宮当番、其の他一切の諸行事を云ふ」。つぎに「二、新たに定住して世帯を営む者が部落有財産の権利加入を希望したる場合は、時価に見積り其の一戸分の相当金額を拠出し、財産権利を有する部落民の承認を得たる場合に於て部落有財産に対する権利が生じる」。第三には、「三、前二項の他特別の事情が生じたるとき、亦は特別の事情が認められたる場合に於ては、財産権利者が協議の上、権利発生年限の短縮亦は延長をなす事が出来る」としている。そして第四には、昭和三十年一月現在の部落有財産の権利者四六名の氏名が連記されている。これが「むら」すなわち村落協同体の構成員である。むらの領域に住んでいても、この権利がなければ、それは「むら」の正式メンバーではない。この「むら」から他の地へ転出した場合は、総ての部落有財産の権利を失う(第六条の一)。しかしふたたび帰住し定住の意志が認められたときは、財産権を復活することができる(同条の二)。この喪失・復権については、「其のときの状況、性質及び環境等に検討を加え、既得権者が協議の上適当なる処置を取る事が出来る」(同条の三)ことになっている。
ところで、戦後においてもこのように「むら」の構成員を確定しておかなければならなかったのは、このむらの延宝七年の検地帳と寛政十一年の村明細帳にある入会山七六町歩が、その面積は減少したが今日なお約六七町歩あるからである。雑木の山もあるが、また松・檜(ひのき)が植林され、明治三十年前後に鎌止めとなっていたことがある。現在その大半は三〇年から六〇年生のもので、その管理はつぎのようになされている。
三月下旬から四月上旬に伐採の跡地へ植付をして、九月五、六日ごろには草刈りをする。植林後五年間は下草刈りをおこない、刈り草は肥料として其の場において帰る。これらの作業はむら仕事としておこなわれ、各戸からひとりずつ出役し、それを怠った場合は、昭和三十一年で四〇〇円の罰金であった。松茸は毎年九月十日ごろ競売に付し、約一〇万円の部落自治会収入となっていた。部落有地の立木は入札によって売却され、戦時中および戦後一時は炭焼きが盛んにおこなわれていた。戦後は新制中学の建設のため、昭和三十年には公民館の新築と九カ所の橋の修理のため大規模の伐木がおこなわれ、余剰金がでた。その処理方法を明確にすることが、この「定め」のいまひとつの眼目だったのである。第四条に「部落有財産より生じる収入金は、前三条の精神を尊重し毎年之れを部落民に表示して部落各種経費に充当する。但し財産権利者協議の上余剰金の一部を配分する事が出来る」とし、第五条「前条に依る余剰金の配分方法として、「一、既得権者は平等の配分を為す。二、新規定住者の配分に対しては十五年をもって既得権者の配分に対する五〇%以内を限度とする。三、既得権者協議の上前項の限度に達せざるものと雖も配分する事が出来る」と規定した。第七条は、本定めの運用記録帳簿は区長が保管すること、第八条には、特別の事項発生のときは其の都度権利者協議の上、適宜処置を計ることを規定している。