昭和二十九年四月一日に宝塚町・良元村が合併して宝塚市となり、翌三十年の長尾村・西谷村合併を画期として、その後の市民生活は大きな変ぼうをとげることとなる。その変化を浮きぼりにするためにも、ここでこれまでの市民の生活の変ぼうを要約しておくことにしよう。
明治の時代(一八六八年以降)になって領主と百姓との関係は消滅し、新政府により農家の土地所有が認められたが、その所有の大小や地主・小作関係はそのままで、地租は地価の一〇〇分の三とする体制下に入る。そして新しい行政制度により、従来の村は否定されてゆくが、生産と生活とに基礎をおくむらは生きているのであった。明治十年前後のインフレーションとそれにつづく松方財政のデフレーション政策によって、一方では地主の土地集積、他方では自作農の没落という過程を経て、明治二十年代には寄生地主・小作関係が広く成立する。しかし山間部と平野部とでは、その規模に大小があった。
二十二年には近代的な明治の町村がつくられ、むらは行政部落として位置づけられた。新しい村は寄生地主層の力によって、部落は地主自作上層の力によって運営された。大正期(一九一二年~)に入って、小作料減免の要求をかかげた小作農層の運動のエネルギーは、他方において小作農の自小作前進への歩みとなってあらわれ、自作農創設維持の政策に助けられながら前進をつづけた。その裏の局面は寄生地主層の衰退であった。
昭和(一九二六~)になってからその初期は、世界恐慌につづく不況に悩まされた。むらの家々の多くは借金に苦しみ、辛酸をなめた。この時期をきりぬけるためには、むらの家々の助けあいによる活動が必要であった。しかしながら、寄生地主・小作関係が農村における基本的関係であることは、依然として変わらなかった。ただ山間部は平野部に比し、より自作農の比率が高く、村においても部落においても、耕作地主的自作農上層の力が強かった。