現在のむら

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戦後の農地改革は、寄生地主的土地所有を消滅させ、自作農を創りだしたのであり、むらは、自作農としては平等な立場に立つ農家を構成員とするむらになった。戦後の町村合併により、明治二十二年に成立した村は、宝塚市の場合、四カ町村の合併によって解消したが、むらはなお生きている。しかしながら、むらの領域には従来のむらの人以外の人も来住することになるし、特に昭和三十五年以降、むらの人々も農業をやめたり、あるいは農家の世帯主でありながら、他業の方が主になる農家も生じて、むらはその景観も内実も変ぼうしてきた。

写真263 上佐曽利の田園風景


 良元・小浜・長尾地区と西谷の長尾山の南部斜面は、それらの変ぼうのいちじるしい所であり、西谷地区もいまやそれをさけることのできない状況となってきた。良元地区のごときは、田畑がほとんどなくなり、山地にも一戸建住宅や集団住宅が建ちならび、むらの領地は分断され、いくつかの居住地区が形成されて、それらが市行政の末端組織になり、大字・小字の名称は住居表示に変更された。農業生育がつづけられていて自主・自律的組織がなお必要なところでは、部落会とむらとは分かれて、前者は行政的居住地区集団である町内会組織になり、むらは生産組合ともいうべき組織に変わる。農業を従とする世帯主兼業農家が増加するにつれて、農業生産と生活に基礎づけられたむらは、その構成単位である家が事実上崩壊に瀕していると同時に、むらの自治機能が衰えてきており、短くみても約三〇〇年の歴史をもつ伝統的なむらは、今日その解体の最後の段階にきているということができる。
 さて、現在まさに消滅しようとしており、ふたたびみることができないと思われるむらの最後の現状を要約しておくことにしよう。むらの歴史的変遷は、むらのなかの自然と営造物とともに祖父母や父母あるいは、その他の人々による伝承によって伝えられて、むらの人々の意識に残っており、また現在の社会関係や社会集団の機能およびその構成に刻みこまれている。すなわち、一方では歴史的に展開してきた社会的・経済的・政治的上下の意識と諸関係の残滓(ざんし)が、現在の家々の諸関係に組みこまれており、他方においては同じむらの領域に住む農家の生産活動や日常生活における協同生産組織および生活組織としての協同的全体性、あるいは一体性をむらはもっている。そのシンボルがむら氏神である。別の角度からいえば、そのような一体性があるからこそ、むらの内部において、またむらの外からむらを政治・行政的に支配し、その末端組織とすることが可能であったのである。むらはこれらふたつの側面の統一体であり、むらの生活はそれらの織りなす綾(あや)である。宝塚市域では、むらの内から自生する商業や工業の力が弱くて発展せず、農業を生業とする状態が長くつづいたのである。

写真264 アパートや一般住宅に囲まれた良元地区の田地


写真265 空からみた山本園芸流通センター付近