昭和三十年代後半以降、農家の世帯主が、通勤や出稼ぎという形で他業に従事して、農業を従とするようになり、子どもたちは農業をきらい長男も家業をつがず、家族員の就業の多様化はついに主婦までが職業をもつところまできてしまった。他方において農業技術の進歩、化学肥料や農薬の使用、農業機械の導入は農家の兼業化を可能にしたが、その可能性がまた世帯主と主婦を、農業機械購入のための資金稼ぎを目的とする兼業に追いやることにもなった。
道路の改修や昭和三十九年六月十万道路の開通と自動車の普及は西谷地区における右の傾向を促進した。これらはまた増加し多様化する娯楽設備への距離をいちじるしく短縮した。家庭にはテレビや耐久消費財が侵入し、燃料や食糧品も都市から農村に逆流するようになった。農家および家族員の生活は、これまでとは異なった生活のリズムの軌跡をえがきはじめた。各農家の生産と消費およびむらの行事は、新しい生活のリズムに順応しなければならない。鹿塩のお弓行事が一月五日から三日に変わったり、むら仕事が日曜日におこなわれるようになった。また田植え機の発明と普及は、水稲栽培に最後まで残っていた手仕事の重労働と協同作業を不要にしてしまった。農家はそれだけ自立性を強めたことになるが、他方において、むらにおけるこれまでの協同意識は弱くなる。むらによって遅速の差はあるが、右の変化は経済の高度成長によってもたらされたものである。むらのなかの構造的変化と生産と生活のリズムの急速な変調は、つぎつぎに新しい問題を生みだした。その解決には、新しい連帯の意識がなければならないであろう。むらの人々が、これまで時と所と状況に応じて創りだし創りかえてきた、むらのなかの、あるいはむら全体の、またむらを越えた連帯の意識と実態とを、むらの歴史のなかで批判的に考えてみることが必要ではないだろうか。