宝塚市はもと、川辺郡小浜村・武庫郡良元村・川辺郡長尾村、同郡西谷村の四カ村であった。
小浜村は昭和二十六年三月十五日町制を施行し、宝塚町となった。ついで宝塚町と良元村とは、昭和二十九年四月一日に合併し、宝塚市となったのである。宝塚市は昭和三十年三月十日長尾村を編入し、同年同月十四日西谷村を編入した。しかしながら、長尾村が編入されるとき、そのなかの荻野・荒牧・鴻池・山本の一部(大野新田)が分離して伊丹市へ合併するという条件があったので、昭和三十年四月一日右の諸地区は分離して、伊丹市へ合併した。
ところが昭和三十一年三月九日、このたびは宝塚市西谷地区切畑字長尾山の一部(東南斜面地区とよぶ)の住民が、花屋敷東南斜面地区改善推進会を結成し、この地区を宝塚市から分離して川西市へ編入することを希望するという陳情を、兵庫県知事および宝塚市長に対しておこなったが、これは実現しなかった。
このようにして宝塚市の市域が確定したのであるが、しかしながら宝塚市成立への道程は、けっして坦々(たんたん)たるものではなかった。事実の上では、大正初期すでに武庫川両岸の旧・新温泉を中心として市街地が形成され、それが一般には宝塚とよばれた。大正四年には旧温泉地区が良元村伊孑志より分離して、良元村宝塚とはなったが、良元村と小浜村とが合併して、宝塚市となるのは容易なことではなかった。
武庫川は平素流水も少なく、両岸を結ぶ交通は困難ではなかったが、ひとたび豪雨があれば河水は激増し、橋梁をも押し流した。小浜・良元両村は幾たびか合併の手をのばしたが、そのたびに武庫川の洪水が両者の握手を妨げたようである。
宝塚市成立への道程を、順を追って以下にみることにしよう。