生産・生活の協同体としてのむらの合併

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町村の合併は一般的には行政村の合併である。行政村の合併は必ずしも村落の合併を意味しない。村落は生産と生活の協同組織およびその領域(これを生活協同体とよぶ)であるから、行政村は合併しても、むしろ村落は合併しないのが普通であった。しかしながら村落が合併することもあった。明治二十二年に、長谷村・芝辻新田・大原野村・波豆村など一〇カ村が合併して西谷村となったことはすでに述べたが、なを一〇カ村の生活協同体は依然として存在していた。
 ところが、このうち生活協同体の合併をおこなったところがある。明治三十年四月付の「長谷村・芝辻新田 合併契約書」によれば、「今般西谷村ノ内長谷村ト同村ノ内芝辻新田ト住民一同協議ノ上村有財産及ヒ村経済等ヲ合同シ契約を締結スル左ノ如シ」として、(一) 村費負担の均一化。(二) 村の夫役の同一負担。(三) 村共有財産より生ずる所得は相互均一に賦課すること。(四) 村氏神を一つにし、それに要する費用は同一負担とする。(五) 両村中にかかる溜池修繕費および修築夫役は均一の負担とする。(六) 有志者の結合する諸講には随意入会することができる。(七) 長谷村の慣例は共に確守する。(八) 長谷村諸規約は共に守る、などの条項を記している。この契約書はまた、寛政十一年(一七九九)長谷村の村明細帳にある「芝辻新田ゟ(より)入込薪こ屋し草かり来り申候ニ付則山手として銀弐拾四匁宛請取」ることがなくなったことをも意味している。これは生活協同体としての村落合併の事例であるが、この長谷村落生活協同体は明治四十年ごろ「長谷村々法」二二条を定めた。戦後になって昭和二十五年一月「申合せ事項」を定め三十年一月二十六日には九項目からなる「部落有財産に就いての定め」をつくり、長谷村落協同体の財産および構成員の権利・義務を明確にした。しかしこのような合併事例の資料は、これ以外市域においては発見していない。
 昭和四年に小浜村は、長尾村中筋の一部(山林)を合併したが、この詳細はいまのところ不明である。