魔の三月十七日

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翌十七日宝塚町長および同議会議長が良元村を訪れ、良元村側の意向を聴取するつもりであった。ところが予め申入れをしていたにかかわらずその時村長は私用で不在だった。議会正副議長が応接したが、宝塚町長が公文書による返事をもらいたいというので、良元村議会副議長は良元村長の行先まで行き、「宝塚町長の意向を伝えた。良元村長は、宝塚町は申入れの通り住民投票を進めて貰いたい、十七、十八日は帰れないが、十九日帰村早々宝塚町長と会談することを約束して置いて貰いたい」とのことで、副議長は宝塚町長を訪れ、その旨を回答した。その時宝塚町長は、良元村に合併の誠意が認められない旨の声明書を作成し発表しようとしていた。そして良元村側が回答した会談についてはその要なしと避けるような態度であったので、「強引に約束履行方を迫り、漸くにして三月十九日面談致すことの運びに至った」。

図19 宝塚市合併地域略図


 しかしその会談開始前に、宝塚町長は公文書をもって、つぎのように良元村に回答した。宝塚町長は、来る三月二十三日の臨時県会に小浜・良元の合併問題を上程一挙に多年の懸案を解決致したいと思ったが、すでに時日も切迫し到底間に合わないから両村合併は一応本会議をもって打切りと致したい。三月二十一日に予定していた住民投票も取りやめることにした、という内容であった。良元村長は十九日帰村して宝塚町長に会見を申入れたが、会う必要なしとの回答であった。さらに強く申入れ、会見することになり、宝塚側は町長と議員二名、総務課長の四人、良元側は村長、議長、議員一名、総務課長の四人が出席した。この時の模様を良元村長岩田充二は二十六年三月二十一日の良元村議会で、つぎのように述べている。「先方は話に乗り気にならず浮腰の態度であった。宝塚町長はざっくばらんに言えば、今迄良元といろいろ話して来たが、私の任期も後僅かであるから見送ろうとの要領を得ない話であった。私としてはもっと真剣に話してくれなければ困るといったところ、向こうはなんでもかでも任期中はできないという。それなら新議員に持越したらどうかといえば、新議員のメンバーがどうなるか分からないという。私はあくまで話を続けようと要求したところ、この際あっさり打切ろう。宝塚市制調査委員会も近く解散しようというので物別れになってしまった」と。

写真272 良元村の合併投票用紙 (西宮市役所所蔵)