二月二十二日には宝塚市長田中九右衛門が西谷村を訪れ、宝塚市への合併を申入れた。奥川辺で残る唯一つの村西谷村にもあせりが出てきた。西谷村会は住民投票によって合併を決しようとしたが、しかし村内にはこのままでよい、自立できるのだから現状維持でよいという考えもある。また合併するとしても、西谷村に多い部落有の山林はどうなるのかという問題もあった。
このころの状況を田中詮徳はその著『あしあと』につぎのように記している。「県の地方課へ意見を聞きに行った三月一日の夜、船岡村長から、私に電話がかかって来た。今晩合併問題につき、旧友会の六人が集まり、村会議員と協議したが、双方の意見の一致を見ないので、村会も辞職の動きがある。だからぜひ出て来てくれというのである。私も腹を決めて行った。『現下の状勢では、合併は時期の問題である。条件を考えるべきだ、そして村民の意志を十分尊重するとともに、極力騒乱を避け、円満に事を運ぶべきである』と説得した。そして部落有の山林は残すことで話がついたのである。三月四日村会はついに宝塚市との合併を決議し、直ちに村長以下宝塚市役所へ行き調印した。私も地元の県会議員として同席した」と。こうして西谷村は、三月十四日宝塚市へ合併した。