昭和三十一年三月九日に提出された花屋敷東南斜面地区分市の陳情は、この地区住民の間に、義務教育・上下水道・ガス・治安維持・防火施設・道路および砂防・その他の問題についての不満があったことに原因する。宝塚市はただちに、この地区の境界変更を認めないという基本的態度を定め、誠意をもって地区住民の要望にこたえることを表明した。知事は昭和三十二年三月二十九日、この問題を町村合併調整委員の調停に依頼した。
この問題は当該地区の内部から分市に対する批判の声が出て、住民の間に混乱が起こり、五月十三日長尾山地区対策推進会会長から現状維持の陳情があり、宝塚市長および議会議長からも分市反対の陳情があり、現地では怪文書が流されまったく混乱の様相となった。
調整委員は同年四月二十五日を第一回とし四回の会議を開き、関係者の意見を聞き慎重な検討を重ねたが、結局境界変更の可否を住民投票にかけることになった。その結果は、当日の有権者数三五五人、投票者総数三二二人、投票率九〇・七%、分市賛成一二八票、反対一九二票、無効二票で、境界変更は実現しなかった。
このようにして、小浜・良元両村の間に合併話が出てから約三〇年にして、ようやく待望の宝塚市が成立した。昭和三十五年完成した宝塚新大橋と三十九年に開通した十万道路とによって、宝塚市は事実上一つの市となったのである。