宝塚の急速な変化

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市域は武庫・川辺両郡にまたがり、明治二十二年までは二六の村であり、全体としては何のまとまりもなかった。その後良元・小浜・長尾・西谷の四カ村となったが、西谷村以外の三カ村の中心をあえて求めるならば、池田・伊丹・西宮から生瀬に向かう三街道が交わる小浜の宿場であった。明治三十年以降は交通革命によって、中心が川面に移った。温泉と歌劇をめぐり武庫川の両岸に旅館や店舗が建ち、大正期には市街地が形成された。武庫川をはさんだ両岸は景勝の地でもあったので、事実上一つの観光地となったが、しかしながら行政上一つの宝塚になるには約四〇年の歳月を必要とした。
 宝塚市域を全般的にみれば、四カ町村が合併して市となるまでは農村であった。酒米や野菜・茶・密柑・イチゴ、植木苗や花卉あるいはまた箕を生産する近郊農村であったが、宝塚市となって以後、わが国の経済の高度成長の影響によって、農家の兼業化が進むとともに、阪神間の近郊住宅地として急速に人口が増加し、昭和四十年以降は農地の宅地化がいちじるしくなり、住宅都市の色彩が濃くなった。宝塚市となった時をもって宝塚市民の歴史の筆をおく。住民の歴史としては、二六のむらの歴史を書かなければならないが、それは不可能であった。古きを尋ねて将来の指針とするためにも、記録はたいせつにしてほしいものである。