人口の増加

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市制施行後、宝塚市の人口は非常な勢いで増加している。いわゆる「人口急増都市」である。現在の宝塚を語るとき、この〝都市問題〟をさけてとおることはできないであろう。昭和三十年四月一日、旧長尾村の一部を伊丹市へ分市して以後、市域は現在の区域になっているから、この人口増加は昭和三十年代にみられるような合併によるものではない。人口増加は〝社会増〟とそれにつづく〝自然増〟である。こうして三十年代、毎日のように田畑が埋められ、山が崩されて宅地となり、新しい家屋が建築されていくのである。
 市制施行後の国勢調査(五年ごと)による人口の推移は表109に示した。昭和五十年には一六万人を突破、昭和三十年からこの二〇年間に、じつに三倍となったのである。合併前に、現市域に居住した人々の二倍の人々が、新市後、わずか二〇年間に新しく市民となったのである。昭和三十五年以降の五年ごとの増加率は四〇%という驚異的な値を示している。

写真282 宝塚市民憲章


 大都市圏内の都市における人々の住まいは、ある地区へ集中するという特徴をもつとされる。わが国では昭和三十五年十月の国勢調査時から、〝人口集中地区〟の調査をとり入れている(人口集中地区とは、人口密度が一平方キロメートルにつき四〇〇〇人以上をもつ調査区でそれが隣接してその人口の合計が五〇〇〇人以上となる地域である)。本市では、人口集中地区面積が昭和三十五年の五・六平方キロメートルから、昭和四十五年には一五・六平方キロメートルに拡大し、全市域に対する割合も五・五%から一四・七%に増加し、集中地区人口は三十五年の三万七三五八人が、四十五年の一〇万五七四九人となり、いまや全市域人口の八三・一%に相当する人々が、全市域の一四・七%に集中して居住し、人口密度も集中地区では一平方キロメートルあたり七〇五〇人という〝過密〟ぶりである。なお全市域の人口密度は四十五年国勢調査では一二四八人である。ちなみに尼崎市の人口密度が約一万一〇〇〇人、伊丹市は約六五〇〇人である。
 本庁および宝塚・長尾・西谷各支所ならびに雲雀丘出張所管下別の人口をみると人口の集中しているのは阪急今津線宝塚南口・逆瀬川・小林・仁川の各駅を玄関口とする本庁地区であり、昭和四十八年現在、全人口の六割の九万三八〇一人がこの地区に居住し、ついで宝塚支所地区に約一六%の二万三五七六人、長尾支所地区に約一四%の二万一九〇二人、雲雀丘出張所地区に八六九四人、西谷地区に三一四九人である。
 宝塚市の人口増加の特徴は、さきの表109に示されるように、世帯数の増加率が人口増加率を上回っていることである。すなわち一世帯あたりの家族数が減少し、家族規模の小さいいわゆる〝核家族〟が多数移住したと模えられる。宝塚は若い夫婦の比較的小規模世帯の住民から成るといえる。