大都市圏における都市への人口集中は、その都市の人口の産業別構成や職業別構成に大きな変動をもたらす。宝塚も例外ではない。図22の産業別人口推移で示されるように、昭和三十年では、農業が一七%程度を占めていたが、昭和四十五年にはわずか四%となった。三十年の農業就業者は三六〇五人であるが、四十五年には二六二一人と約一〇〇〇人の減少である。農地は宅地に変わり、新しく転入した住民に提供された。なかには農地を売って大邸宅を構え、アパート経営に転業した人もある。そして林業・狩猟業や鉱業人口もほとんど影を消してしまう。
産業別にみると、製造業と卸・小売業、サービス業に従事するものが多く、製造業と卸・小売業の就業者のみでその半数を占めるにいたる。
この産業別人口の変化は、また職業別人口に反映している。図23に示すようにいまや宝塚はホワイトカラーのまちであり、専門的・技術的職業や管理職にある者のまちである。いわゆるサラリーマン、すなわち銀行・商社・メーカーの事務従事者は、昭和三十年の一六%から、四十五年の二二%にまで増大している。阪急今津線の象徴は、宝塚音楽学校の「グリーンの袴(はかま)」から「グレーの背広」へ変わっていく。さらにほぼ安定した構成比を占める技能工・生産工程従事者・単純労務者・販売従事者ならびにサービス職業従事者を考慮に入れると、まさにいまの宝塚は、ホワイトカラーと管理職に代表される中流ないし上流の住宅都市といえそうである。かつての宝塚は、その地理的条件もあって、山の手に悠々(ゆうゆう)自適の優雅な生活をおくる退職者や宝塚歌劇の生徒や、あるいは近郊農業(園芸業)や旅館のだんな衆の住む、しずかな町であった。しかし、今や、この二〇年間に人口が激増し、毎朝、大阪や神戸へ通勤する新住民のためのベッド・タウンへ変貌(へんぼう)したのである。こうして新市宝塚の歩みは人口の急膨張に伴う〝混雑〟の日々であるとともに、混雑現象を克服するためのたたかいの朝夕でもある。