朝夕の人口流動

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朝七時過ぎ、阪急今津線の各駅は背広姿のサラリーマンでみるみるうちにホームが溢れる。数分間隔で電車が来てはのみこんでゆく。この光景は三十年ごろから年を追うて激しくなった。各駅のホームは延伸工事が実施され、列車編成車輛数もしだいに大きくなったが、混雑度はいっこうに緩和される様子もない。表111―(1)の人口流出率をみると、昭和三十年度の一七・三%から、四十五年には三二・七%まで伸びている。夜間人口に比較しておよそ三人に一人が昼間流出していることになる。もちろん宝塚への流入人口も増加しており、三十年の流入率は四・四%であったが、四十五年には九・二%にまで上昇している。この流出・流入の差をみて昼間人口を測り、夜間人口と比較した昼間人口率をみると、昭和三十年は八七・一%であるが、四十五年には七六・四%と低くなる。いまかりに、四十五年の人口中女性の比率をとると五〇・七%であり、一四歳以下および五五歳以上の男性の比率をとると一八・一%であるから、女性とこども・老人の比率は六八・八%に相当する。これに昼間流入人口比率を加えると昼間人口比率となるから、宝塚の昼間は女性とこども・老人の街ということになる。
 さて、宝塚を朝、出発した市民はどこへ流出するのであろうか。流出先はもちろん大阪・神戸であるが、大阪が最大である。その意味で宝塚は大阪都市圏に属するといえる。流出先都市別人口は表111―(2)に示した。大阪市への流出入人口は三十年に五二〇〇人余であったが、四十五年には約一万九〇〇〇人にのぼっている。ただし夜間人口に対する比率は三十年の五五%から、四十五年の四五%へ減少しているが、この理由については、企業が大阪から郊外へ脱出したことが考えられる。
 ついで西宮市への流出率が終始一三%前後であり、隣接都市西宮との密接な関係を物語るが、四十五年をみると、流出者五一三六人のうち通学者二二二七人を含むところから、高校生を中心に西宮へ流出することが明らかである。神戸市への流出率は漸増しつつはあるが、ほぼ一〇%前後である。同表でその他の都市には大阪府下の池田市・豊中市・吹田市・箕面市・茨木市など北摂各市と通学先の京都市が含まれ、阪急宝塚線や国道一七六号線、それに万博後の一七一号線(西国街道)、中国自動車道や大阪府下の中央環状線の整備に伴う通勤・通学圏の拡大を物語っている。
 宝塚市への流入人口の流入先都市についてみると、四十五年の国勢調査では、兵庫県内からの流入人口八七〇九人、県外から二九四九人となっている。県内では西宮市から二八二二人、神戸市一二〇二人、川西市一一九七人、尼崎市一一六八人、県外では大阪市から六五二人、府下各市から二一二四人が流入している。なお通学者は二〇四九人である。
 このように大都市圏域にある都市の特徴は人口の昼間流動にもあり、そのため交通混雑が激しくなっている。宝塚市は大阪・神戸大都市圏と相互に依存関係にあり、かつ圏域は拡大の傾向にあるということができる。

写真285 栄町交差点の交通渋滞