大阪市・神戸市の影響

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わが国は東京・名古屋・大阪が連らなる〝東海道メガロポリス〟とよばれる巨大な帯状の都市圏を国土軸として発展している。なかでも大阪市は東京に対抗して、西日本の管理中枢機能として働き、企業の本社機能が集中している。しかし二〇三平方キロメートルという狭域では、そこで働く人々にとっての新しいベッドは、物理的(空間的)にも、経済的にも、大阪市内には見出せない。結局、新しいベッドを求めて大阪を離れざるをえない。昭和三十年代には豊中・吹田・高槻の各都市や枚方・門真・寝屋川の各都市など府下の北摂や北河内など、大阪を中心とする一〇キロメートル圏に向かい、やがて西宮・宝塚などいわゆる二〇キロメートル圏に向かって住居を求めていく。宝塚はこうして四十年代から大阪のベッド・タウン化してきた。
 神戸市の場合は、大阪市とかなり事情が異なる。神戸市は西神地域・裏六甲・六甲山腹と広大な開発されていない市域をもっている。五三四平方キロメートルのうち市街地となったのは、四十年現在でわずかに一二%にすぎなかった。したがって神戸市で働く人々は、神戸市域で住居を求めることができたのである。
 昭和四十五年の国勢調査によると、大阪市への昼間流入人口は一〇八万人であったが、そのうち兵庫県下から大阪市への流出人口は二二万四〇〇〇人である。そして宝塚市からの一八七四二人という流出人口はこの八・四%に相当する。こうして宝塚は大阪市を核都市とする大阪都市圏の衛星都市として発展してきた。
 ところで大都市圏は絶えず変化し、拡大している。大阪市の夜間人口は四十年の三一五万六〇〇〇人をピークに減少傾向に転じ、四十五年には二九八万人、そして五十年には二七七万人となった。しかし都市人口が都会を離れてUターン現象が生じたということではない。昼間人口はほとんど変化がないからである。ただ夜間人口が核都市を離れて、ますます周辺の郊外住宅都市に移動しはじめたためである。いわゆる〝ドーナツ現象〟が現われた。いまもし周辺地域が無計画に、そして無防備にこの核都市から溢れた人口を受入れるときは、農地は無惨に侵食され、丘陵地はショベルパワーで切り開かれ、いわゆるスプロール化が進行するであろう。宝塚市はいまこのスプロール化の波に押しつぶされようとしている。