宅地造成

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宝塚市成立後二〇年間の歴史は、宅地造成の歴史といえそうである。住宅地宝塚のイメージはすでに大正中期から昭和初期の阪急沿線の開発によってはじまっていた。仁川・中州・武庫山・御殿山・雲雀丘・花屋敷の高級住宅地は当時形成されたものであることは、第三章で述べた。これらの住宅地は宝塚歌劇と宝塚温泉・あるいは山本の園芸とはまたちがった顔である。
 昭和三十年代にはじまる高度経済成長は、大都市圏に急激な人口集中をもたらした。大阪市に立地する企業に職を求めて集中した人々は、まず大阪市内に、そして隣接地域に、さらにその外周地域にと居を求めた。このとき、デベロッパーが大阪市への通勤圏として至便距離にある宝塚を見逃がすはずがない。こうして三十年代から宅地造成がはじまった。三十年代の前期は、宅地造成といっても比較的小規模であり、阪急電車各駅から徒歩一〇~一五分圏ぐらいの農地、池等が住宅地に転換された。同時に中層の寮・社宅の建設がはじまり、大規模なものとしては、日本住宅公団仁川団地の造成が昭和三十四年に完成した(巻頭写真16)。三十年代後期には西山・武庫山・中山台など丘陵部に本格的に山を崩した「宅地造成」がはじまった。ショベルパワー、ブルドーザー、ダンプカー等建設・運搬の機器の発達がこれを容易にした。他方、尼崎港埋立・大阪空港拡張・名神高速道路建設等の大規模建設工事における土砂の供給を六甲・長尾連山に仰いだ。
 宅地造成によって宅地面積は増大したが(表112)、しかし六甲・長尾連山を遠くからみると赤茶けた山肌をあらわすにいたった。さらに宅地造成は古墳・遺跡などの埋蔵文化財破壊の原因ともなり、市民の間に批判が生まれるにいたった。そして開発によって段丘が破壊され、河川の流路が埋まり、いったん豪雨がおそえば、砂防堰堤の効果もむなしく、急傾斜地は崩壊し、浮土・土砂が流出し、中小河川の堤防の決壊の原因となった。昭和三十二年、昭和三十五年、昭和四十二年の風水害、とりわけ四十二年の集中豪雨は開発の恐しさを教えるものであった。また土砂運搬のダンプ車は、砕石場からのダンプ車とともに、市内の狭い道路を走り回り、一時はダンプのまちの異名まで生まれ、ダンプ通行反対の住民運動も自然発生的におこり、市当局は開発規制に取り組むにいたったいきさつがある。