明治二十五年伊孑志に水道が創設されたことは第二章五節で述べたが、私設水道を別にすれば宝塚市上水道の歴史は、昭和二十五年九月、小浜村上水道の創設にはじまる。小浜村上水道は生瀬水源池に日量三六〇〇立方メートル、一人一日一八〇リットル、給水人口二万人の計画で創設された。翌二十六年七月良元村上水道が伊孑志水源池に日量三六〇〇立方メートル、一人一日一八〇リットル、給水人口二万人の計画で創設され、二十九年四月に宝塚市上水道に合併された。以後、三十一年九月第一次拡張事業では逆瀬川水源池(四十六年廃止)、紅葉谷水源池(四十年廃止)を確保し、宝塚上水株式会社を買収し、計画給水人口五万人、一人一日二〇〇リットル、一日最大給水量一万立方メートルとなった。三十一年十一月第二次、三十四年の第三次拡張事業により、三十六年七月小浜水源池(浅井戸、日量五〇〇〇立方メートル)が送水を開始した。三十七年五月小林水源池(浅井戸、日量五一〇〇立方メートル)が送水開始、さらに四十一年二月に第四次拡張事業で計画給水人口はいっきょに一四万人、一人一日四〇〇リットル、一日最大給水量五万六〇〇〇立方メートルに拡張され、四十一年二月には川面水源池(浅井戸、日量五〇〇〇立方メートル)、四十六年五月小林浄水場、四十七年四月深谷ダムが完成した。四十七年八月第五次拡張事業に着手し、計画給水人口一六万五〇〇〇人、一人一日五一〇リットル、一日最大給水量八万四一五〇立方メートルを目標とし、亀井浄水場・小浜浄水場・惣川浄水場の建設を計画した。三十年以降の推移をみると、給水人口も、一日平均給水量もともに増加の一途をたどったが、右に述べた拡張事業の結果、三十年の普及率三八・三%は四十年に八七・三%、四十五年には九四・三%に上昇した。
宝塚市水道の問題点は水源に限界があることである。昭和五十年現在、自己水源としては表流水一万九八〇〇立方メートル、武庫川水系の伏流水二万八七〇〇立方メートル、地下水一万三一五〇立方メートル計六万一六五〇立方メートルであり、受水は二五〇〇立方メートルであるが、将来は一庫(ひとくら)ダム完成後県営猪名川水道より一日二万二七〇〇立方メートルの受水に期待している。
宝塚市北部の西谷地区には簡易水道があり、玉瀬浄水場及び四カ所の配水池で一日八一〇立方メートルの給水をおこなっている。
宝塚市上水道で市民生活ときわめて密接な関係があるのは、斑状歯問題をめぐるフッ素含有問題である。フッ素含有濃度の高い紅葉谷上下両水源および逆瀬川上下両水源はすでに廃止されたが、その健康に関する科学的調査は、四十七年一月十四日発足の宝塚市斑状歯専門調査会によって積極的にすすめられ、市民の不安を一日も早く除く努力つづけられている。