富岡鉄斎

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          天保七年(一八三六)~大正十三年(一九二四)
 鉄斎は生涯、自分は儒者である、儒者は孔子・孟子の教えを奉じ、身を修め、家を整え、国を治め、民を平らかにすることが理想であり、書画や詩文は、儒者にとって、その人格を養成するための手段にすぎないとして、画家と呼ばれるのを喜ばなかった。一般に当時の南画家たちは学問に乏しかったが、漢籍の知識があった村田香谷(むらたこうこく)や職人から身を起こして教養を積んだ野口幽谷(のぐちゆうこく)などの人物は高く評価していた。
 鉄斎が画をいつごろから学び始めたかは、今では確かなことを知り難いが、二〇歳前後には早くも画の修業をはじめたにちがいなく、また学問にもようやく力を入れはじめており、学問と画の修業の両方は互いに複雑にからみあって、わけることのむつかしいものである。
 晩年の鉄斎はほとんど旅に出ることはなかったが、壮年時代には毎年のように日本各地を旅行すること数十日におよび、その土地の風俗や、旧跡を実地に調査研究した。「名所十二景図」「蝦夷(えぞ)富士・霧島真景図屏風(きりしましんけいづびょうぶ)」等にかかれた風景は、すべて鉄斎自身がその土地をたずね、自らの眼でたしかめたものである。これは鉄斎が中国文人の理想とした「万巻の書を読み、万里の路を行く」を忠実に実行したもので、単なる想像でつくり上げた絵空事(えそらごと)ではない。歴史上の人物や、物語りを画にかくときにも、出来る限りの文献を探し求めて誤りのないことにつとめた。自分のかく画にはすべて典拠があると、鉄斎は自信を以って常に人に語っている。また和漢の画論に精(くわ)しかったことはもとより、画の技術についても徹底的に研究した。鉄斎の画は一般に南画とよばれる流派に属するが、単に南画の技法を研究しただけではなく、大和絵(やまとえ)や琳派(りんぱ)・四条丸山派にもくわしく、大津絵にいたるまであらゆる画法にも通じていた。
 青年時代の鉄斎が学問を学んだ人は、二、三にとどまらないが、当時京都で一流の人物とされた陽明学者の春日潜庵(かすがせんあん)は最も影響を受けた師であったようである。相当血の気の多い若者であった鉄斎にとって、陽明学の行動主義的な思想が、一生の進路を定めたといえよう。明治九年(一八七六)すでに四〇歳をすぎた鉄斎は、ようやく大和石上(いそのかみ)神宮の少宮司に任命され、神社復興をもととして人心の振興に全力を尽した。しかし国家の財政は鉄斎の理想を実現するにはあまりにもとぼしく、その費用を調達するために、信徒の希望者に自作の画を売ることにした。ここでも画をかくことは、同時に神に奉仕することであり、その為にいっそうの努力がなされた。神官生活は約六年ほど続いたが、兄の死去のため辞任して京都に帰り、以後は学者として京都の美術界にさまざまの働きを残すとともに、その人格をしたう多くの人々のために、画作を続けることによって斉家(せいか)修身の教を示すことにつとめた。鉄斎は大正六年(一九一七)に帝室技芸員に、大正八年には新たに設けられた帝国美術院の会員に挙げられた。何れも専門家の最高の栄誉とされる地位であるが、これらの地位は同時に好まぬ職業画家と列席することであり、一見はなはだ矛盾することのようであるが、こうした行動には我々が簡単に理解しがたい点も多く、その信念は我々が矛盾と感じるような瑣細(ささい)なことを意にしなかったのであろう。また帝国美術院の主催した展覧会(帝展)には一度も出品はしなかった。
 鉄斎と清荒神の関係は清澄寺第三七世坂本光浄法主(ほっす)より始まる。大正十一年の七月、光浄法主は当時の高野山管長土岐法竜(ときほうりゅう)師の紹介状を持って鉄斎をはじめて訪問された。土岐師の手紙の内容は、清澄寺の信徒総代であった西宮の故辰馬悦叟(えっそう)翁の頌徳碑(しょうとくひ)を清澄寺山内に建設するにつき、篆額(てんがく)の執筆を希望しているから面会して欲しいということで、また光浄法主は書画に趣味をもち、鉄斎の作品をも所蔵しておられることが書きそえてあった。
   祖父はかねてより辰馬悦叟翁と親交があり、私が憶えてからは翁自身が訪れられたことはないが、手紙の往復は非常に頻繁(ひんぱん)にあり、身近のこまかい事もいろいろと通信しておられた。
   そのようなこともあって、悦叟翁は光浄法主にも書画を蒐(あつ)めるのであれば、人格的にも世の尊敬を受けている鉄斎の画をあつめることをすすめられたとも聞いている。
 当時鉄斎はすでに数えどしで八七歳の高齢であり、光浄法主は四〇代の働きざかりであったはずである。清荒神はそのころから参詣者の多い寺院として有名であり、光浄法主は阪急の小林一三氏が宝塚に歌劇場を開いて娯楽の殿堂としたのに対して、清荒神は信仰と芸術の理想境を創造したいと念願しておられたので、これがきっかけとなって、双方の交友が始まった。
 光浄法主は一度鉄斎を清澄寺に迎えたいと度々さそわれたけれど、当時は今日のように自動車の便もなく、老齢の鉄斎が汽車や電車に乗ることは、ほとんど不可能であった。そのため鉄斎は生前には一度も清澄寺に参詣する機会を得なかった。しかし二人の交友は僅かに二年余りの短期間であったけれども、鉄斎の芸術に流れる愛と平和の精神に深く共鳴された光浄法主は鉄斎歿後も作品の蒐集(しゅうしゅう)につとめ、今日の大コレクションの源を築かれ、戦後の人々が心のうるおいを求めた時に東京で鉄斎展を催して大きい反響を呼び、その後アメリカ・カナダ・ソビエト・ブラジル、ヨーロッパ諸国でも鉄斎作品の巡回展を開かれ、東洋と西洋の文化の交流に大きく寄与された。
 光浄法主が昭和四十四年、九五歳の高齢で僊化(せんげ)されたのちも、光聰和上は先師の遺志を受けて、そのコレクションをいっそう充実させ、先師が生前より念願しておられた鉄斎美術館を山内に建設し、昭和五十年四月より一般に公開するはこびとなった。なお、鉄斎美術館の入館料は全額を宝塚市に寄贈し、将来開設される市立図書館の中に聖光文庫として、美術に関するあらゆる書籍を蒐集して、研究者の便宜をはかることとし、既に昨年中に相当数の書籍を購入して寄贈している。恐らく鉄斎自身も光浄法主との短い交友が五〇年後の今日かくも大きく発展するとは予想もしてなかったことであろうが、いまはこの一〇〇年の知己を得て喜んでいることを信じて疑わない。