明和2年(1765)~安永8年(1779)
元禄検地以来80余年ぶりに実施された安永検地は、多くの農民の反対を押し切って強行され、増石高1万1千500石余、年貢率は実質的に2割5分余も引き上げられるというものであった。
検地に反対する農民は、大原代官に強訴を行なうほか、代表者を選んで、大垣藩への提訴、老中松平右近将監への駕籠訴、尾張藩への箱訴などを行なった。
このため幕府も飛騨一円に広がろうとした騒動を鎮圧するため、隣藩の美濃国苗木、岩村、郡上、大垣、越中国富山の各藩に出兵を命じたほどであった。
この大原騒動によって農民の処罰は1万人に及び、一方で検地に協力した一部の者には表彰が行なわれた。さらに行政上の責任者大原代官は、新検地帳が交付された安永6年、布衣(ほい)を許され、郡代へ昇格した。これは安永検地を強行した論功行賞ともいうべきものである。
幕府の方針を忠実に履行すれば、たとえそれが領民にとっては呵政(かせい・きびしくむごい政治)であっても地位は上がっていくのであった。大原代官の昇格は幕府による幕領行政の一端をうかがわせるものであった。
なお、大原代官の妻は夫の悪政を諫めて自殺した。