文化元年(1804)~同8年(1811)
嘉古は高山陣屋で没するまでの7カ年に、米価調節資金、米買上資金調達などを行ない、また高山の城山公園の整備や学塾を開かせるなど、飛騨国と幕府のためにつくした。
文化2年(1805)、高山の町人12名が赤田臥牛に「幼童読書指南並びに五常の道教授」をうるため、教授所を高山に開設することを願い出た。嘉古はこれを許し、講堂を新築して半官半私の学塾とした。
また文化6年(1809)春、城山公園に桜の苗を植え、公園の基礎を開いた。農閑余業の産業振興にも積極的に取り組んだ。