文政12年(1829)~天保10年(1839)
永昌が任期中に高山町に2度の大火、また飛騨には2度にわたる大飢饉があり、積極的な救済政策で人民を救った。
火事の際は幕府の許可を得、類焼者約555軒に対し、各戸に金3分ずつ貸下げて10年賦返済の措置を講じた。
次に天保の飢饉時には、凶作にあえぐ「本保陣屋(福井県武生市)」の惨状を視察し、飛騨にある備荒用の囲籾(かこいもみ)を売って金に替え、それを困窮している村々へ主食の購入資金として貸し与えた。なお彼は私財も出し、かつ領内の金持ちからも寄付金を集めるなどして、これらの金も救済金として用いた。
彼のこの救済は権限を越えたものであり、死罪を覚悟の上といえる。
武生市本保町では今も遺徳をしのび、毎年1月15日には大井祭を行なっており、記念碑も建立されている。