[熟成された文化の発展]

 室町時代の飛騨国司姉小路基綱は、歌道で名が高く、都で宮中の御歌会にも出席していた。その子済継も和歌をよくし、それは飛騨文学のさきがけとなった。国学者田中大秀(1777~1847)は、飛騨文学の祖である父子の功績を偲び、歌塚を建てた。飛騨市古川町細江に今も残る。
 また、鎌倉時代の地頭多好方(おおのよしかた)は、高山市国府町宮地に在住したといわれ、鶏毛打を教えている。ゆっくりとした優雅な舞で、中世的な調子が感じられ、飛騨の鶏闘楽、闘鶏楽、鳥毛打に多好方の遺した文化が流れている。
 金森氏は、京都伏見城下、京都御所の南方に屋敷を持ち、最初京文化、後江戸文化を持ち込み、茶をたしなむ風流大名であった。初代長近、可重は茶室を各屋敷で作り、可重の目利きは秀でたものがあったという。可重の長男重近は、当初古川の増島城主であったが、理由あって勘当され、母子で京都に行く。剃髪して宗和と号し、公家との交流をして、宗和流茶道を起こした。京都の真珠庵庭玉軒(国重文)は宗和の設計によるものと伝わる。
 金森時代に始まった高山祭は江戸の山王社との関係があり、さらに屋台を導入して絢爛豪華な祭礼へと発展をさせている。屋台は織物や人形を京都に求め、構造、祖形は江戸形である。この屋台を維持する組織は、江戸時代における一つの組(現在の町内会単位)であり、その結束は堅い。屋台は組の誇りである。屋台が通るのに格好がよい町並を維持するのだという考えがある程である。現在、各屋台組ごとに町並保存会組織をつくり、高山城下町の西側区域に設けた商人町の町並保存がなされている。高山祭のときには、哀愁のただよう屋台囃子が古都高山の城下町に流れ、上品な文化を今に伝承する。 
 また、高山地域は「食い道楽」と言われ、食文化が発達し続けた。それは富山に近いためおいしい魚が容易に運べたことや、幕領時代に江戸から調理人を連れて来たことなどによる。酒もおいしく、宴会の機会が多い今の高山につながった。