金森時代の城下町を中心に岡本町や三福寺町を含めた高山盆地全体が描かれている。高山城は「御城」と記され、輪郭のみである。武家屋敷には名を書き、町家では赤色、道は黄土色、寺は茶で彩色されている。
右上には各町の長さが記されている。壱ノ町長六丁弐拾九間壱尺・弐ノ町長六丁拾六間・三ノ町長六丁拾壱間四尺・欠ノ上町長五拾六間・上ノ向町ヨリ下向町マテ長四丁程など、南北の通りの長さが記される。欠ノ上町は長五拾六間とあるが、現在の馬場、吹屋南北通りと安川の一部東西通りの合計であろう。
一之新町・二之新町・下新町の名は、町並が北へ発展していったことを示している。
この図は高山の町年寄を勤めた屋貝家(註6)に伝わったものである。町年寄は領主と町人の間に立って、宗門人別帳の作成も行なった。町年寄は金森時代初期に矢嶋茂右衛門が町代となったのが始まりで、のちに一之町に矢嶋、二之町に川上、三之町に屋貝の三家が世襲で勤めるようになり、金森時代末期には各5人扶持(註7)を受けていたという。
(註6) 高山城下町の町年寄は、一之町が矢嶋氏、二之町が川上氏、三之町が屋貝氏で、代々世襲した。
(註7) 加越能文庫『金森在番雑記 単』金沢市立近世資料館蔵の中に「金森出雲守殿御家来附け帳」の項があり、その中に「一、五人扶持宛町代屋(矢)嶋茂エ門、川上善吉、屋貝権四郎」とある。