この絵図は、寛文3年(1663)に高山城の石垣を修築した際、幕府の老中稲葉美濃守正則へ届出をした絵図(註23)の控えである。
東側の二之丸庭樹院殿屋敷の北側石垣が破損し、また西側の二之丸屋形北側の石垣が大きく張り出してしまったために、事前の届出をしている。
庭樹院屋敷北側石垣は、寛文2年(1662)5月1日、近畿・中部・関東地方にかけての大地震で崩れ、翌年2月の大雨でさらに崩れた。
また、二之丸屋形北側石垣も寛文2年の大地震で崩れた。この2カ所について、付箋が貼られて表記され、図の余白には規模や災害の様子が書いてある。
二之丸屋形北側の付箋には「此所はらみ候石垣高四間半東西八間」、庭樹院殿屋敷北側の付箋には「角高さ三間半、此所崩候石垣高三間東西弐拾間半」「此所崩候石垣高弐間角迄南北五間」と2枚が貼られている。
この絵図からわかることは①金森氏は高山城の全体測量図を幕府に出したくなかったこと、②城郭の諸施設は最高軍事秘密なので、武具蔵、塩蔵などの所在は明らかにしていない、③建物は質素に書いていることなどである。また、二之丸屋形北側の修築した石垣は、元禄8年の高山城取りこわし、石垣撤去の際には、防災対策上から取り払われていないことに注視すべきである。
(註23) 寛文3年、延宝4年の石垣修復届出絵図については、「高山市教育委員会編集『高山城発掘調査報告書』 高山市教育委員会発行 昭和61年」 25、26頁に記載している。