室町時代前半

 室町時代、守護の初見は、鎌倉幕府が滅んだ年である元弘3年(1333)、岩松経家の補任(北朝から)で、この経家は建武2年(1335)の「中先代の乱」において戦死、のち、延文4年(1359)近江の守護佐々木道誉が飛騨の守護に補任された。
 佐々木氏は、応永2年(1395)に隠岐、出雲両国の守護も兼ね、本国の近江を含め、4カ国の守護となり、その後六角家と京極家に分かれている。
 一方、南朝側からは建武年中(1334~1335)に姉小路家綱が国司として下向している。姉小路は、古川(飛騨市古川町)を中心とした飛騨北部を治めたのに対し、北朝守護側の勢力は主に飛騨南部を中心としていた。応永18年(1411)、足利4代将軍義持の命を受けた京極高数らは、国司姉小路を討ち、それ以後、姉小路は古河、小島、小鷹利の3家に分裂した。
 その結果、飛騨は、神岡(飛騨市神岡町)に江馬氏、古川盆地に姉小路3家、南飛騨に京極家と、3氏が鼎立(ていりつ)することになる。
 この時、飛騨には北朝側である京極氏の被官として三木氏が置かれたが、この三木氏は先に登場した佐々木氏の一族である。
 京極側では北飛騨の国司姉小路をどんどん攻め、一族の多賀氏を派遣、高山に多賀山城(高山城の位置)を築かせた。
 しかし繁栄した京極家も応仁の乱(1467~)頃には相次いで没落した。その中で、争いにまきこまれなかった京極氏の被官は土着し、飛騨各地域で勢力を伸ばすことになる。