飛騨国主金森氏が、関ヶ原の戦に際して、表高に倍するほどの6万石の軍役を負担できたのは、豊富な材木と鉱山資源があったからである。また元禄5年(1692)幕府が飛騨を直轄領としたのは、山林資源の掌握を狙ってのことであったともいわれる。金森氏の領国時代は、「山内残らず地頭山」「御台所木」という買木制度があり、山村民と高山の杣頭などへ、金銀をはじめ米・塩・味噌を前貸して材木を伐り出させ、藩は定値段で買取って差引勘定をした。この材木は金山町下原まで川下げして材木商人に払い下げるか、名古屋白鳥港・桑名まで流送して処分するかの方法がとられていた。
幕府直轄地時代の元禄15年には500カ所近い御林山が設定された。飛騨山村のなかでも益田郡の阿多野・小坂・竹原などの各郷は林業や山林労役を主とした山村で、金森氏時代は板榑を年貢として納め、幕府直轄地時代の元禄10~20年には阿多野郷・小坂郷48カ村が榑木60万~70万挺の伐採(元伐)を許されて、元伐賃と米とが下付されるという措置がとられた。
18世紀中頃には、杣株1つをもつ小杣が25人で1組をつくり、各組におかれた杣頭と小屋頭の統率の下で、山中の小屋で生活しながら元伐りを行なっていたというように、元伐稼は杣株として固定化されていった。この杣株は、北方元伐場所への進出の根拠とされたり、大原騒動の発端ともなった、明和9年(1772)の元伐稼中止に代わって設けられた山方買請米の割当を受ける資格などとされたので、しだいに財産として売買されるようになっていったのである。
人別米制度が実施された寛政期、山方では元伐稼48カ村のうち25カ村にかぎり元伐稼が復活させられており、人別米制度ともども、大原騒動後の飛騨における寛政改革として注目される。