[幕府が収納した国絵図]

 江戸幕府は、土地の台帳である「郷帳(ごうちょう)」と国ごとの「国絵図」を主要大名に命じて徴収をしている。幕府が最初に国絵図を収納したのは、幕府開設の翌年、慶長9年(1604)であった。その後、正保、元禄、天保期の、合わせて4回の大がかりな国絵図収納が行なわれている。これとは別に、寛永10~13年、3代将軍家光が全国の大名に国絵図作成を命じ、派遣された巡見使が収納していった「巡見使国絵図(『絵図』第1~5図)」がある。寛永、正保、元禄、天保期の国絵図を掲載した。
 
 ・慶長国絵図
 家康は伏見城から、国絵図と郷帳を提出するよう指令を出しているが、全国一斉ではなく西日本諸国のみが対象となったという(註1)。この時期の飛騨の国絵図は確認されていない。郷帳は慶長10年のものが残る(註2)。
 
 ・正保国絵図(『絵図』第7~9図)
 3代将軍家光は寛永21年(1644)9月に、諸国大名より国絵図、郷帳、城絵図を徴収するよう指示をした。絵図作成にあたって基準が定められ、その概要は次の通りである。
 〈城の絵図〉本丸、二之丸、三之丸の間数、堀の深さや広さ、侍町と町家の間数を書く事など
 〈絵図〉知行高の帳を作る事、2部作る事、郡分け、郷村の高、国の合計の高を記入する事、道法は6寸を1里とする事、本道は太く脇道は細く朱色にする事、川、山、坂に名を書く事、舟渡、広さを書く事、国境の道程を書く事など23カ条である。
 6寸を1里とする縮尺は約2万1千6百分の1で、その後の国絵図にも踏襲されたという。この1里を6寸で表すのはあくまでも平坦地のことで、曲がりくねった傾斜のある山坂道においては距離の伸び過ぎを考慮して、一般には道筋1里を3~4寸程度に縮めて表現している(註3)。
 現在、幕府の収納した絵図の原本は残っておらず、寛政期に勘定奉行を務めた幕臣の中川忠英が写していた模写本42カ国分が国立公文書館に収蔵されている。
 掲載している正保期の国絵図(『絵図』第7~9図)の縮尺精度を見てみよう。
 現在の高山市域は東西が約81キロメートルで、江戸時代の大野郡域の東西距離である。『絵図』第8図の正保国絵図中、大野郡の絵図原本でみる大野郡の大きさは、東西分で約285センチあり、換算すると縮尺が2万8千分の1となる。縮尺は概ねではあるが「6寸1里」に近い。
 
 ・元禄国絵図
 正保の国絵図ができてから50年後の元禄10年(1697)、正保の時よりも細かい作成基準が設けられ、国絵図改訂版の作成が命令された。その中で、国境、郡境の争いがある場合は解決した上で絵図を作成する事とされている。元禄の国絵図作成は江戸本郷の絵図小屋で行なわれ、隣接する国の国境筋が合致するかどうかを確認している。元禄15年(1702)、全国83鋪全部の上納が完了した。この国絵図は常陸など8鋪のみが現存し、国立公文書館に現存している。飛騨国の分は含まれていない。
 
 ・天保国絵図
 幕府による天保の国絵図作成事業は、天保の改革に先立つ全国的な政治地理調査として重要であった。正保、元禄の国絵図事業は郷帳と合わせて諸国の大名が将軍へ献納したものだが、天保期の場合は、天保6年に郷帳改訂を終え、次いで国絵図改訂を開始、天保9年に事業を終了している。国立公文書館に幕府文庫(紅葉山文庫)と勘定所伝来の天保国絵図原本が現存、全国の分が揃っている(註4)。
 掲載している天保期の国絵図(『絵図』第11~14図)の縮尺を見てみよう。現在の高山市域は約81キロメートルで、江戸時代の大野郡域の東西距離である。『絵図』第11図の天保絵図原本中、大野郡(飛騨国の東西)の大きさは東西で約383センチあり、換算すると縮尺が約2万1千分の1となる。縮尺は概ねでは「6寸1里」に近い。
 
註1 「国絵図研究会編『国絵図の世界』柏書房株式会社 平成17年発行」7頁
註2 「岐阜県編集『岐阜県史史料編近世一』岐阜県 昭和40年発行」218頁
   「和泉清司著『近世前期郷村高と領主の基礎的研究・正保の郷帳・国絵図の分析を中心に』
    岩田書院 平成20年発行」602頁
註3 「川村博忠著『国絵図』株式会社吉川弘文館 平成2年発行」18頁
註4 「前掲註1」9頁