第15図 [目録] |
この図は弘化3年(1846)に書き直されたもので、街道と在所、山岳、河川、谷、金山、隣国への道程が表記されている。弘化以前に作成された国絵図の情報を採用しているところも多い。
平成2年、岐阜県歴史資料保存協会により『濃飛の国絵図』が複刻され(註1)、その解説がなされているので次に記する。
絵図の筆者昌一は、宝暦11年(1761)生まれで文政4年(1821)11月没。天明8年(1788)9月江戸に出て寛政4年(1792)高山に帰り、以後59歳の没年までの大部分を地役人として勤め、その間山廻役や口留番所役を勤めたこともあった(今井隆氏談)。従ってこの図は地役人に関係のあった寛政4年から文政4年までの間に、勤務の必要から作製したものと考えねばなるまい。弘化3年は裏書にもあるように孫の英臣が書きなおした年であろう。つぎに絵図の特色と見られることを列記する。
(1)絵図の大きさは、携帯や利用に便利な大きさとしている。
(2)飛騨国の平面形は、南北の距離に対し東西が少し短い程度であるが、明和9年(1772)の飛騨国惣山絵図がこれに近い。しかしこの絵図は、南北の長さに対し東西が短くほぼ3対2の割合で、元禄8年(1695)の飛騨国絵図に近い。明治6年(1873)の『斐太後風土記』所載の飛騨三郡村々全図も大同小異である。こうして見ると近世に飛騨で通用していた絵図の原本は、元禄の絵図でなかったかと思われる。
(3)村々が郡別に色分けされている点、他国への通路について「美濃国小郷村ニ出ル」と行先を記入している点なども、元禄図と同様であるが、「高山より境迄拾五里拾二町」のように、郡代役所所在地の高山町から国境までの距離を示している点は違う。山廻役や番所勤めをした筆者の必要から加えたものとして注意したい。
(4)図の東西国境にある高い山の峰のあたりを白くして白雪を表現している点は、飛騨国の絵図ならではで、興味を引く。
註1 「『復刻 濃飛の国絵図』一 飛騨国絵図(弘化3年・祖父昌一筆)」
岐阜県歴史資料保存協会 横山栄助 平成2年9月15日 複刻・刊行