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第27図 |
石原哲弥は飛騨郡代役所文書にある史料を調査して、『岐阜県歴史資料館報第4号』に伊能らの測量行程を研究している(註1)ので概要を以下に記する。
詳細な史料調査により文化11年(1814)4月の飛騨国測量ルート図を作製した(第27図)。その図の中で高山の緯度(安川鍵屋前)が36度8分30秒と計測され、実際の緯度の36度8分36秒と比べて6秒の差であり、極めて精度が高い。
また、経度の観測は2カ所で行なっており、加納(岐阜市)は東へ1度2分3秒、高山は東へ1度32分0秒と計測している。これは、京都を0度としたものである。
測量日程は次の通りである。
〈本隊〉
中津川→福岡→田瀬→付知→加子母
文化11年(1814)
4月11日 加子母 12日 御厩野
13日 湯之島、萩原 14日 小坂
15日 久々野 16日 高山
17日 高山 17日 別隊5人は古川へ
18日 甲(かぶと) 19日 中之宿
20日 野麦 21日 寄合渡
〈別隊〉
郡上八幡→貢間→祖師野→金山→下原
文化11年(1814)
4月11日 下原 12日 保井戸
13日 森
これらの測量作業は、事前に飛騨郡代所へ4月3日に「先触」が届き、人馬、宿泊についても差支えないよう便宜を図るよう沙汰している。伊能隊の第1回測量のときは、勘定方からの「添触」、第2回は道中奉行、勘定奉行からの「先触」、第3回からは人馬の無賃貸出し、第4回からは人足5人、第5回からは幕府直轄事業となり、忠敬も文化元年には小普請組(10人扶持)にとりたてられていた。飛騨の測量隊は15人で、村々の人足は御厩野村で51人の人足記録がある。
また、伊能隊の記録には次のものがある。
加藤歩肅『紙魚のやとり』(鍵屋の前で天測をしたこと)
岡村利平『飛騨編年史要』大正10(入・出国の月日と経路)
田中貢太郎『大野郡史 中巻』大正14(「新家記録」による)
角竹喜登「伊能忠敬の新史料」
『飛騨春秋』4年3号飛騨郷土学会発行 昭和34年
註1 石原哲弥「伊能忠敬の飛騨測量について-飛騨郡代役所文書史料紹介-」
岐阜県歴史資料館編集発行『岐阜県歴史資料館報第4号』昭和56年所収