『飛騨国中案内』に飛騨国の郷別石高と、郷内の各村が記されているのでここに紹介する。郡→郷→村の構成が分かる内容である。
表3 天正年中より元禄年中迄之飛騨国中村々高辻帳之写 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
『飛騨資料 飛騨国中案内(増補完本)』
著者 上村木曽右衛門 校訂解説 大野政雄
製作 (株)創研社 解読底本(第3巻) 小林幹
昭和45年12月1日刊行 会員頒布限定版
刊行者 岐阜県日日新聞社 業務局・郷土出版物コーナー
岐阜県郷土資料刊行会
『飛騨国中案内』 上村木曽右衛門満義編
※飛騨国の項について抜粋を紹介する。
一
抑飛騨国は東山道八ヶ国の内にて、下管四郡、大原・天野・益田・荒城と有。何年の時代か大野・益田・吉城と三郡に相分る。大野郡は九ヶ郷百三十六ヶ村、益田郡は九ヶ郷百ヶ村、吉城郡は六ヶ郷百八十ヶ村、合て二十四ヶ郷、村数合四百十六ヶ村あり。此内栗屋谷村・下山村、此二ヶ村は嶽下にて霜雪早く降り不豊耕作、其上少の事ありて民家絶果て跡荒所に成、今改攸は四百十四ヶ村なり。飛騨は不近海辺、殊以塩浜へ遙に遠し、故に塩味稀成と有。職原抄にも飛騨は下管、諸書にも下々国と相見えたり。日本一の山国、山高くして谷々深く嶮難の地にて難所多し、国の要界は能く一騎打の道筋多し。他国より容易く難責入。小国なれとも常に飛騨は四十里四方と申事に候。」知行高は三万八千七百六十四石四斗の所、是は金森法印公への拝領高なり。外古開高二万千六百石余あり。外に高三万石は荒城郡の内にて金山領、是は金銀山運上知行高三万石分に太閤秀吉公より被仰出。権現様、台徳院様御代迄運上仕、公儀へも金山金少々備高覧候。其後中絶仕、山裏作之故出金無御座候間公儀へも差上不申候。
寔飛騨は一円皆山国とは相見え候へ共諸木に取りて桧・椹・葉栗・松等多く生木す依之諸材木夥敷く出来す、尤も川下けの節は、京・大阪・江戸此三津へも川路・海辺の船路・通路・運送等も通用よし、南方は益田川・馬瀬川共に濃州金山にて落合、夫より濃州川合村にて信州木曽川と落合、尾州宮の内白鳥湊迄、川並・海辺・通路吉し。北方は宮川通り、高原川通り此両川越中蟹寺村にて落合、越中岩瀬湊まて川路の通路能し。白川の川通は越中赤尾村まて出、夫より越中伏木湊まて川路の通路吉し。
偖又往昔より在々所々に城郭・村郭を構へ、諸武家方多く当国に居住処に、相互に其武威・威光を本と仕る故に、動すれは不時に乱を起し、欲幕下属打負或は他国え遂電或は即死す。其跡絶事也。天正年中迄者不得止事、然る処に金森五郎八郎長近入道素玄法印公威勢を以て一国一円打平け、天正十四年に十六ヶ所の城々吾手に属し給ふ、則古川の蛤ヶ城に移る。暫有て同十八年より飛陽高山に一城を構へ飛騨の国司と号す、同出雲守頼旹公迄以上六代相続、治国年数は末に記す、元禄五の秋に至り所替被仰出、羽州上野山へ、其跡御蔵所に成り、同年九月江戸より御上使並御代官高山へ被為着。同十月城引渡有り、国中一円御代官御支配に成、此節より同八年亥夏迄、加賀宰相綱純公(紀カ)へ城並侍屋敷共御預の所に、同夏中に右の城並士屋敷破却、加賀衆飛州引払。元禄七戌年五月より翌年亥八月迄国中御検地有之。御検地惣奉行は戸田采女正公御家来小原仁兵衛・野中市左衛門・辻又蔵、新撿高四万四千百五石二升一合、内田高二万九千七百六十九石五斗七升一合、畑高一万四千三百三十五石四斗五升、此反別六千十四町九反七畝二十一歩、内三千六十町五畝九歩田方、二千九百五十四町九反二畝十二歩畑方。外高三百六十四石七斗八升四合、是は寺社道場百四十八ヶ所の分元禄十丑年御除地に被仰付。時の御代官は伊奈半左衛門殿なり。」益田郡高七千七百十四石二斗二升一合、此村数九ヶ郷にて百ヶ村有、大野郡高一万七千四十一石五斗二升六合此村数九ヶ郷百三十六ヶ村有、内十五ヶ村は照蓮寺領高二百三十六石五斗六升一合、但白川郷の内にて荻町村分郷共に以上十六ヶ村なり。吉城郡高一万九千五百十五石五斗五升四合、此村数六ヶ郷にて百七十八ヶ村あり。右三郡二十四ヶ郷、村数四百十四ヶ村なり。又享保九辰年・同十巳年・同十一午年・此三ヶ年改出新田高百八十石三斗一合、金銀山分改出共に都合高四万四千二百八十五石三斗二升二合也。」且当国為締国境又は国内に口留御番所三十一ヶ所あり、是は慶長年中より承応年中迄に段々中番所迄建立す、往来の人改並諸色品々十分一の運上等出入の諸荷物取立之事なり。」寺院百五十四箇所。社数は四百七十六社。」国中の御入用橋は三十七箇所、此外板橋百三十三、引渡橋二百十六箇所、此二品は国中割合又は自普請にて懸替る。筏橋七箇所、是は村通にて往還の通筏にては無之候。渡船十箇所、舟は十一艘、内八艘は国中割合、三艘は丸太舟、村方にて自普請。籠渡場十ヶ所、是も村役用。水樋三ヶ所圦三ヶ所此六ヶ所は御入用。用水筧二ヶ所、用水溜井二ヶ所、筧は御入用、溜井は村役。米蔵六ヶ所は御入用。郷蔵三十五ヶ所は其所々収納組の百姓手前普請。」国中家数合一万三千七百六十七軒、村毎に家数但大小と申事は大は百姓家持、小は門屋・地借・家抱・水呑等是も委細別帳に記置。」人別男女合七万千五六百人、是は年々増減有之儀人数慥に難定候。牛馬合七千七八百疋内外、馬は五千疋の内外、牛は三千疋に不足、是も年々増減。」国中に有之猟師鉄砲数七百三十四挺、次に威鉄砲百八十四挺。国中に酒屋数八十九軒是は高山町方扨は益田筋・古川町方・高原舟津町に有之候。」従高山国境迄道程、附たり二十六ヶ所の出口、他国へ出る道並、此外国中村々細道・脇道立横に通る道筋、其村並・村順・道法・並川瀬舟渡場所・川横、附たり渡舟一艘毎に長ヶ巾高サ敷内の間・寸、板橋の長・横巾共に、偖は一ヶ村毎に村高辻並田・畠の石盛上・中・下・下々・山田・谷田・砂田・山畑・砂畑等有之分ケ、其村々厘附高下の分ケ、則享保十三申年増免但五ヶ年平均は四ツ三分之処に三分五厘の増免に成、其後五厘増。且又元文三午年より来る卯年まて、拾ヶ年定免之内之厘附を只今村毎に記之置候。」国中にて名有る山々、又は金・銀・銅・鉛等先年より堀出し候山場所・古城跡並其節の城主等・寺院、其開基何年以前何れの年と其寺境内山林・境外高反別は勿論、村々に有之神社は何神と申事並社領境内何程有と記之。尤寺院の儀は真言宗、禅は曹洞宗・臨済宗の分ケ、法華宗、浄土宗、本願寺宗は西方・東方。右寺々の本寺其国所付ケ、山号寺号共に書記。惣て飛州社数四百九十社有之、内九十七社は益田郡に御座、百二十六社は大野郡に御座、二百六十七社は吉城郡に御座、外に観音堂十一ヶ所、勢至堂一ヶ所、薬師堂十二ヶ所、大師堂一ヶ所、阿弥陀堂九ヶ所、地蔵堂五ヶ所、大日堂一ヶ所、以上四十ヶ所の分其村毎に記置候。」前に記し置き候猟師鉄砲七百三十四挺之内、五百四挺益田郡に有、百三挺は吉城郡に有、百十七挺は大野郡に有、十挺は同郡白川郷にて照蓮寺領の百姓所持す。威鉄砲百八十四挺の内、七挺は益田郡に有、九十挺は大野郡に有、八十六挺は吉城郡に有、内一挺は取上に成る。」且又飛州高山より他国への出口・道筋二十八ヶ所有り。内二ヶ所は本道にあらす、国境之村より隣国の内隣村へ出る道筋なり。二十六ヶ所は他国に出る本道則隣国之内何々と申所迄の道並・順道・道程を記す。
江戸より京迄木曽道中記。同下タ海道通大井より名古屋迄道並記。従京江戸迄東海道道筋道中記。北陸道之内越前府中より信州追分迄道並道程。朝鮮国より来朝舟路名所付ケ朝鮮人来朝帰国之節海陸所々。日本之大川並日本之海無国並日本之内にて寒国半寒国暖国之分ケ。西国三十三番並秩父三十四番並坂東三十三番は何国に有事。越中国伏木湊より摂州大阪迄海辺舟路道程。