彦六は、4月16日の朝早く江戸を出立して日光街道を北へ進み、幸手(さって)・岩船・粟野(あわの)・尾鑿(おざく)・小来川(おころがわ)・日光・宇都宮・古河・草加の9か所に泊まって、4月25日の夕刻江戸へ帰っている。
しかし、岩船・粟野・尾鑿・小来川はいずれも日光街道とは全く別の道、すなわち日光修験者が霊場をたどる道筋にある宿場である。
そのことは、今回の旅がいわゆる日光見物が目的ではなく、日光修験道の聖地を巡拝することが目的であったことを物語っている。
この旅日記が江戸出立の日から書き始められているのも少し不可思議であるが、彦六は、江戸までの旅は何回も経験しているので江戸までの行程は省いて、いきなり江戸出立から書き始めたのかもしれない。
また、道中の金銭の出納についても
壱朱 出
四百拾六文 入
三朱 日光拝見入用 宿料中飯代
などと、きわめて大雑把である。
しかし、宿料はどの宿も2朱と決めており、土産らしいものは、日光で「とうがらし」を大・小3箱ずつ買ったのみで、無駄遣いをさけ、お供の清四郎へ与えた金弐分(これは手当としてはかなりの大金)を含めて、10日間でわずか2両3分と204文の旅であった。