この旅日記に目を通してみると、彦六の旅の目的は、日光東照宮の参詣を柱とする、いわゆる日光見物にあったのではなく、遠く平安時代の初めに開かれたという日光修験道の数ある聖地のうち、天保の時代に栄えていた山々・寺社を巡拝することであった。
そのことは、この旅日記が、日光修験道の聖地として栄えていた次の絵図を中心にまとめられていて、日光東照宮の絵図や記述が載っていないことからもうなづけるところである。
大平山権現
岩船地蔵
出流山(いずるさん)
尾鑿山(おざくさん)
古峯ヶ原(こぶがはら)金剛峯
男体山(なんたいざん)
日光山中禅寺
男体山大権現拝所
彦六がどんな動機から日光修験の聖地巡拝を思い立ったのか、この旅日記の中にそのことを知る手がかりは見つからないが、
・この旅日記を江戸出立の日から書き始めていること。
・この旅日記が、文章ではなく巡拝した聖地の絵図を中心に書かれていること。
・宇都宮の水時計を絵に描きとめて、「天下ノ事此ノ時計に有り」などと記していること。
などから考えて、彦六はかなり奇才の人物であったのではないかと推測される。
彦六が巡拝した、というより登ったという言葉があてはまる、日光修験道の聖地について、この旅日記と平凡社刊「日本地名辞典」から、その概要に少し触れてみる。
〈大平山権現〉
大平山は標高340.2メートルの山で、次に記す岩船地蔵が座す岩船山などと連山をなし、日光修験の行場があったところとしては、最も南に位置している。
大平権現は平安時代の初め、天台宗の僧円仁(後比叡山天台座主第3世)によって開かれたと伝えられている。
「袖中旅日記」の絵を見ると「麓ヨリ十六丁登ル」と書かれているから、それほど険しい行場ではなかったと思われる。
絵図に「岩船二リ」とあるから、彦六は大平山権現に参詣した足で、2里(約8キロメートル)の道を岩船山へと向かったのであろう。
〈岩船地蔵〉
標高は172.7メートルと低いが、全山奇岩怪石をもって知られ、麓の賽川原から頂上の本堂までの道は険しく、「袖中旅日記」は「岩山、石段四丁ばかり登る、道難渋」と記している。
宝亀年中(770~781)に、伯耆国大山山麓の弘誓坊なる僧が生身の地蔵菩薩を求めてこの地に至り開山したという。
以来、岩船山は霊魂の集まる聖地とされ、日光修験道の行場として栄える一方、江戸時代に入ると岩船地蔵信仰は関東一円の民衆の間に広まり、各地に講が結成され、今日なお地蔵菩薩の縁日や春秋の彼岸会には関東各県からの参拝者で賑わうという。
〈出流山〉
「袖中旅日記」の岩船地蔵絵図の中に、奥院から右手にかけて「出流道」と書かれている。
彦六は前の晩岩船の玉木屋という宿に泊って、早朝岩船地蔵に参詣し、そのまま下山せず、奥院から別の山道(出流道)を通って出流山へ向かっている。
「袖中旅日記」に
奥院より山越えニ致し、出野寺村へ出、峠を越え葛生へ出、正雲寺村より出流山へ参ル
と記されている。
彦六が通った道は、あるいは修験者が通る道であったかもしれない。この「袖中旅日記」を丁寧に読んでみると、彦六は意図して修験者が通る道に近い行程を旅したのではないかという想いがしてくる。
出流山は鍾乳洞の山で、全山に奇岩奇石が露出しており、加持水と名付けられている清泉は「いか成る照りニても水かれる事なし」と言われ、出流山の語源となっている。
出流山は日光山(二荒山)を開いた勝道上人が開山し、上人もこの山の岩屋で修行したと伝えられており、江戸時代には「日光の修験者は必ず1度当山で修行する取決めであった」という。
「袖中旅日記」の絵図には「宿」の文字が5カ所記されていて、出流山繁栄の様子を伝えている。
ちなみに、彦六は旅の途中この出流山の景観に最も強い感動を覚えたらしく、絵図の中に次のような書込みを遺している。
大師之岩屋ハ諸仏之形。滝・天蓋いろいろ有り、道甚だ険し。
千手之岩屋図の如く、二十間之廊下キダハシ百四拾七所ニ有り。
此の上ニ大師之護摩段(塩)有り。観音之形下ニ四拾八海。
大日之岩屋、諸仏・旗・天蓋之形有り。奥深し。
〈尾鑿(おざく)山〉
石裂(おざく)大権現また石裂山とも言う。石裂山は標高879.4メートル、古来より山岳信仰、修験道の霊場であった。
中腹に石裂権現が祀られ、山頂に月山神社(祭神月読命・つきよみのみこと)が祀られているが、「袖中旅日記」の絵図には3カ所に梯子の絵が描かれており、月山の右側には「登り梯子より十八丁」と記されていて、かなり険しい参道であったことがわかる。
「袖中旅日記」には「尾鑿山三山懸ケテ石裂山より久我山出ル山代・案内共壱人前八拾四文ツヽ尾鑿御師ニ納メル 裏山代五拾六文久我の御師へ納メル」と書かれているから、この山は案内人なしでは登れないほど険しかったのであろう。
彦六は供の清四郎と連れだって月山へも登り、さらに尾鑿山から山づたいに次の霊場久我山へと足を進めている。
〈古峯ヶ原金剛峯〉
出流山から日光山に至る山岳のほぼ中央に位置し、古峰原信仰の聖地と言われているが、彦六の絵図には「古峯原御山」として遠景が描かれ、麓の社家の近くに「神拝所」の文字が見えるから、彦六たちもここから御山を拝み、登頂はしなかったものと思われる。
金剛峯権現の由来は、平安時代の終わりころ、ある修験僧が日光山から古峯原の麓へ、金剛童子の像を移して金剛堂を建て、金剛権現と称したのがはじめという。
絵図の中の「隼人(はやと)」は金剛堂を護持する社家の中の有力者で、隼人坊と称し宿坊を兼ねていたらしい。
明治初年の神仏分離令によって金剛童子の像は日光山へ返され、現在は日本武尊を祭神とする古峰(ふるみね)神社が祀られているという。
〈男体山〉
「袖中旅日記」の中には、男体山の全景と「日光山中禅寺男体山大権現拝所之図」が描かれている。
男体山は日光火山連峰の中の単独峰で、標高2,484.4メートル、二荒山神社の神体山で、天応2年(782)に勝道上人が登頂して開山して以来、日光修験道の中心行場として人々の信仰を集めて栄え、近世には毎年7月1日から7日まで、中禅寺上人の先進で日光山の修験者のほか、一般講中の者も中禅寺に参籠、湖水で水垢離をして、7日に男体山に登頂した。その数3千人から4千人を超したという。
従って、彦六は時期的に男体山へ登頂はできず、中禅寺湖畔に設けられていた遙拝所から山頂を拝したことになる。
男体山・二荒山・日光山など用語もその歴史もきわめて複雑で、特に日光東照宮が建立されると、旧勢力と新勢力の対立、権現と本地仏との関係なども、門外漢にはわかりかねることがあまりにも多いので、二荒山信仰・日光信仰については、それを略す。
〈おわりに〉
打保屋彦六がまとめた「袖中旅日記」の概要を追ってみたが、
①打保屋彦六という人物の素性
②彦六が日光修験道の聖地を巡拝しようとした、その動機
③そのころの飛騨の山岳信仰の実態
について調べる、という課題が残る。
しかし、打保屋彦六の「袖中旅日記」を読んでいると、当時の高山町が経済的にも文化的にもかなり盛んな状況にあったことがわかる。