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写真 寛政12年(1800)長崎への道中記 |
この「道中記」の表紙には
寛政十二庚申年三月廿一日出立 六月廿九日帰宅
京都 大坂 有間 九州 長崎 見物
金毘罷山 紀州高野山 参詣 道中記
大坂治助
供 弥吉
と記されているが、実際は、治助の本家筋にあたる大坂屋七左衛門とその供庄助を合わせた4人が連れ立って旅をした道中記である。
寛政12年(1800)は、60年に1回廻ってくる「庚申(こうしん)」の年にあたり、江戸時代の後期になると、この庚申の年に旅行や祝い事を好んで行う風潮が広まったとも言われているから、治助らもこの年を選んで旅に出たのかもしれない。
寛政12年は4月に閏月が入っているため、行程では3月21日出立、6月29日帰宅となっているが、その間に閏4月の30日をはさんで、合わせて4カ月と8日、つまり128日間の旅となっている。
治助と七左衛門のプロフィールについては次の項で少し触れるが、「森家累図」によると、彼等の祖は天文5年(1536)のころ、摂津国大坂から飛騨へ入り、松倉城下に居住して「森姓」を名乗ったという。
「森家累図」はそのころの大坂屋森家の身分や生業については明記していないが、「森氏」は木が3本で戦国の武将「三木氏」にごく近い家柄である、といった俗説は別にしても、「森家累図」を丁寧に読んでみると、累図全体から、大坂屋は武士または武士に仕える豪商であった気配が感じられ、少なくとも寛政12年、治助と七左衛門の2人が128日間の長旅に出たころの大坂屋はすでに、高山町において豪商としてのかなり高い地位にあった。
そのことは、たとえば大坂屋治助がこの128日間の長旅に1人で57両余という大金(今日のおよそ150万円)を遣っていること。あるいはこの旅行中に、優れた文人・愛石家として全国的にその名を知られていた近江の木内石亭、京都の茶道の宗匠松尾宗政、大坂の本草学者木村蒹葭堂らを訪ねたり、長崎には10日間も逼留していて、阿蘭陀屋敷で異国人カピタン(オランダ商館長)に対面したりするその行動のスケールの大きさなどから、容易に推察することができる。
ところで、この道中記の特長は、前半の27頁は128日間、日を追って1日ごとに、通った町や村の名前と道のり、参詣した寺社の名前や見物した場所、旅宿の位置と亭主の名前等を正確に記録し、後半の34頁は「京都逼留記」・「高野山如来堂相応院」・「音物」(お礼や贈り物)・「長崎へ礼と進物」・「駕籠賃書出」・「道中荷物持賃書出」等の項目に分けて、その支出を実に丹念に記録しており、京都の銭相場・銀相場から、お供の弥吉に払った賃銀と礼金までをも書きとめていることである。
中でも目を引くのは、7頁に及ぶ長崎逼留中の記録、有名寺社の由緒メモ、それから、訪問先・寺社・案内者・招かれた茶席等に対する進物と礼金の数の多さや額の大きさである。
お供の弥吉に対しては、旅128日のところ、131日分の賃金として金2両11匁を払い、ほかに礼金として金2朱を贈っているが、この道中記全体から、若い大坂屋治助の教養の高さ、出会う人や歴史を大事にする心、身についた人品のよさが伝わってくるようである。
このあと、この道中記にかかわりの深い人物やことがらについて記する。