(1)寛政12年「西国道中記」をまとめた森治助(桃林)について

 昭和15年、当時木内石亭の研究家として高名であった長谷部言人博士の要望に答えて、治助の子孫小森元三郎がまとめた「森桃林翁調書・控」によると、この「道中記」を書き遺した大坂屋治助は、飛騨で最初の俳句結社「雲橋庵」を創立し、これも飛騨で最初の句集「くらゐ山」天地2巻を編集出版した人物としてよく知られている森江鷁(大坂屋森氏の7代目彦兵衛)が、その晩年に次男をつれて分家した大坂屋治助家(後小森姓)の5代目の当主である。
 この5代目治助は桃林と号し、石器・俳諧・書画・茶道等に親しむ風流人で、一生のうちに長旅を14回も重ねた人物であったという。
 前記した「森桃林翁調書」は、寛政12年(1800)に本家の大坂屋七左衛門(「道中記」の中では大七と略記されている)を同道した西国旅行について、木内石亭との対面を中心に次のように記述している。
 
 寛政十二庚申年三月二十一日出発 六月二十九日帰宅
  旅行方面 高野山・京都・大坂・西国筋
       金毘羅山・宮島・長崎
  同  道 大坂七左エ門  号凡山 当時五十六才
             供 庄助  同 二十一才
       大坂治助    号桃林 同 三十六才
             供 弥吉  同 四十才
 
 申三月二十七日九ッ時、江州山田浦石亭宅ヘ着。同
 氏宅ニ一泊、翌二十八日九ッ時迄ニ石器拝見終リ、
 直ニ門前ヨリ舟ニテ出発。
  近親二木長嘯翁ノ添書持参訪問、石亭氏大
 イニ悦バレ、非常優待ニテ二日間ニワタリ叮嚀ニ
 石類拝見セシ様子ナリ。
     木内本家 木内小兵衛
          木内文平
       隠居 石亭
 桃林同道ノ凡山ハ拙家ノ本家ニ当ル。
  (後略)
 
 大野政雄の調査(『飛騨春秋』第13年第4号「木内石亭と二木長嘯」)によると、この時治助らが持参した石亭あての書簡の控と、石亭が長嘯にあてて送ってきた礼状が他の石亭からの書簡とともに二木家に伝えられている。
 また、治助がまとめたこの「道中記」には、治助と七左衛門が共同で石亭へ贈った音物が次のように記録されている。
 
 三月廿九日     近江山田浦
  一、御菓子料南鐐三片 木内文平隠居
              石亭翁へ
    批目批   壱枚
    箸 角  
      菱   十膳入弐袋
 
 南鐐は明和9年(1772)に老中田沼意次の発案によって発行された2朱銀のことで、南鐐1片は金2朱にあたると刻印されている。従って南鐐3片は金1分2朱にあたり、当時の音物としては決して少ない額ではない。2人の石亭に対する敬意の表れであろう。
 なお、2人のために石亭あての添状を書いた二木長嘯と、その長嘯や治助・赤田臥牛らの大先達であった津野滄州(福島屋五右衛門)については後に述べる。