この大坂屋七左衛門(大七)は、大坂屋本家の10代目であるが、9代目彦兵衛の実子が早世したため、縁籍の細江屋三郎右衛門家から9歳の時に養子に迎えられ、14歳で七左衛門と改名して森家を継いだ人である。
俳諧を通して加賀の千代女と交友があったことで知られている細江屋三郎右衛門(俳号千尺)は、この七左衛門の実兄にあたる。
七左衛門は俳諧・茶道・骨董鑑定などに優れ、家業も順調に進んだので森家中興の祖と称えられたといわれ、『岐阜県史・通史編近世』は、茶道の項で森七左衛門・上木重敏(上木甚兵衛の義弟で二之町に分家した甚四郎同人)ら4人を飛騨における優れた茶人としてその名を挙げ、七左衛門については
森宗永、通称は七左衛門、号は凡山。本姓は細江氏、大坂屋という。酒造家、雲橋社中。
茶は京都の松尾宗政(後述参照)につく。書画・骨董・刀剣・碁・将棋。
延享2年~文化6年、65歳。
と記している。
ちなみに「森家累図」によると、七左衛門の最初の室は二木長右衛門の娘で、17歳の若さで病死している。あるいは長嘯の姉か叔母であったかもしれない。
また、七左衛門の後室の娘與素は、二木長右衛門泰豊の室として二木家へ嫁している。
長嘯が石亭あての添状の中で治助たちを縁籍の者として紹介しているのは、こうしたつながりがあってのことであろう。