江戸時代の考古学研究の先駆者と称されている近江国山田浦の木内石亭は、全国に数百人の社友を擁する「弄石社」の中心的存在であったが、中でも飛騨の津野滄州と二木長嘯とは特に親密な交流があったといわれている。
滄州は長嘯より37歳も年長で、すでに宝暦の頃(1751~)から石亭との親交があり、安永元年(1772)には、滄州が鳥目百文で買い入れた神代石(独鈷石)を石亭に贈ったところ、石亭は大いに悦び、返礼に大曲玉を送ってきたといわれている。
長谷部言人博士の論文「福島滄州と二木長嘯亭」(『ひだびと第8年3号昭和15年』)によると、寛政12年(1800)の3月、大坂屋七左衛門といっしょに近江の山田浦の石亭宅を訪ねた時、治助は「石亭翁奇石記」と題する帳面(小森家に現存か)に、邸内に陳列してある石器・奇石等の目録を全部記録し、特におよそ20年前に滄州から贈られたという独鈷石の略図を描いて、その上部の空白部分に石亭が自ら命名したという「神代太刀」の名を書き添えて持ち帰ったという。
こうした見識の高い隠れたエピソードの存在を知った上で、京都では松尾流の宗匠に初めて弟子入りしてあちこちの茶会に顔を出し、あるいは大坂では天下の木村蒹葭堂の家を訪ね、さらに日本の最西端の町長崎では10日間も滞在して阿蘭陀屋敷の邸内でカピタンに対面したり、阿蘭陀船に乗り込んで異国人と歓談したりしたという「道中記」の記事をもう1度読み返してみると、山国飛騨の高山の町人であるかれらが身につけていた、あらゆる事象に対する飽くなき探究心と、どんな初めての経験に出合ったとしても決して物怖じしない胆力と行動力には驚かざるをえない。
化政文化とよくいわれるけれども、しかし、この治助の「道中記」などによって、その前の時代、すなわち天明・寛政の頃の飛騨の国では、大先達津野滄州をはじめとして、有名な上木甚兵衛・加藤歩簫・赤田臥牛・加納東皐・二木長嘯らのほかにも多くの文人たちが、競って華やかな文化活動を展開していた様相を想像することができる。
ところで、大原騒動以前から、飛騨の経済・文化の指導的立場にあった津野滄州は、安永年中に入ると年齢とともに行動力が弱まってゆき、安永・天明の頃、それまで収集を続けてきた奇石や石器類、及び木内石亭から送られてきた愛石にかかわる書簡等を、だれか知人(長谷部博士はその相手を森治助ではないかと推測されている)へ移譲したといわれている。
しかし、一方、津野滄州の影響を強く受けていた二木長嘯は、天明の初め(1781~)頃から、若くして木内石亭に接近し、以後数回にわたって近江国山田浦に石亭を訪ねて教えを乞い、時には飛騨の奇石(主として神代石=独鈷石か)を贈り、その見返りに石亭から奇石のいくつかを贈られたという。
長谷部博士や大野政雄の調査研究によると、石亭と長嘯との交流は、30歳という年齢の差を超え、非常に親密なものがあったといわれ、天明8年(1788)5月から享和元年(1801)までの13年間に、石亭から長嘯あてに送られてきた書簡45通が子孫二木家にのこる。
長嘯が絵に堪能であったことは、長嘯10歳の時に描いたといわれる絵に加賀の千代尼が讃を書いた「飛州十景」でもよく知られているが、長嘯が描いた石器類の絵や著書、あるいは益田街道河内路の改修に尽力したこと、石門心学の普及に努めたことなど、長嘯の多面的な活動や功績が評価される。