大坂屋七左衛門と治助の2人は、旅の途中京都で、松尾流の茶道の3代目宗匠松尾宗政に入門している。
なぜ松尾流を選んだのかその理由はよくわからないが、入門料は金百疋(金1分= 4分の1両)で、往路・帰路合わせて39日間の京都逼留のうち、14回松尾家を訪ねており、そのほか松尾宗政・宗俊父子や宿の主人の案内により、10回近くかなり身分の高い家の茶席に招かれたりしている。
その間の音物に、2人でおよそ3両の金を費しており、茶道に対する思い入れも相当なものであったようである。
松尾家は、当時京都東洞院押小路(ひがしのとういんおしのこうじ)にあったが、後、鳥羽・伏見の戦の時に類焼の難に遭ったため、前々から出張所があった名古屋へ移り、今日に至っているという。