(7)両大坂屋が遺碑の作成を依頼した高野山真言宗相応院について

 大坂屋の手次寺は治助の頃はいずれも浄土真宗であったが、帰路、高野山へ登って両人とも先祖の位碑の作成を依頼している。
 「森家累図」によると、初代七郎右衛門義直は「長松院繁山永昌居士」、2代七郎右衛門義紹は、「指月和関禅定門」の戒名をいただいているが、3代目七左衛門義房から後は、すべて「釈法春」・「釈尼妙春」など、浄土真宗の法名が贈られている。
 浄土真宗では位碑をつくる仕来りはないといわれているが、七左衛門は「釈可参」・「釈尼妙寿」など8人の位碑をつくり、治助は幾人かの法名を1枚に書き入れる大位碑を1枚つくって、両大坂家合わせて3両余の礼金を上納している。
 この「道中記」は位碑をつくってもらった時の状況を、詳細に記録しているが、「月碑」「茶碑」など意味不明の言葉が多い。