大七・治助らの一行は、閏4月20日に到着して5月1日に出立するまで、丸々10日間長崎に逼留して諸所の見物にあわただしい日々を送っている。
旅宿は、京都の茶人松尾宗政宗匠の門人で、たまたま長崎から上京していた河内屋竹谷仁右衛門という人物が添状を書いてくれたので、仁右衛門の息子友助がいろいろ面倒を見てくれ、竹谷家の向かいの河内屋善吉宿に草鞋をぬぐことになった。
長崎見物の案内は、友助・善吉の2人が引き受けてくれたのであるが、幸運にも、長崎の大通司中山作三郎という人物が京都で会った竹谷仁右衛門の親類であったことから、阿蘭陀方役人会所を通じて阿蘭陀屋敷へ入ることが許され、カピタンや大通司にも対面して、時計・遠目がね・異国の飾物等を拝見したうえ阿蘭陀渡りの酒を一献頂戴して、帰宿している。
山の国飛騨から旅に出て、遙かに遠く離れた長崎の地で、見も知らぬ阿蘭陀屋敷の中でカピタン(オランダ商館長)に対面した人物は、おそらく飛騨始まって以来、大坂屋七左衛門と同治助の2人が、最初であったことであろう。
寛政12年(1800)という年は、奇くも父上木甚兵衛の看病のため新島へ渡っていた三嶋勘左衛門が、父の歯骨を胸にいだいて帰国した年でもあった。
ところで阿蘭陀屋敷から帰った後の治助らは、聖堂(キリスト教会か)や唐寺を参詣したり、唐人屋敷を訪問して唐人に対面したり、あるいは阿蘭陀船に乗船して船内を見物したり、船遊びに興じたり、毎日忙しい時間を過ごしている。
旅慣れていたと思われる治助にとっても、長崎での体験は格別であったらしく、道中記の日記の部分全27頁のうちの7頁半を費やして、長崎での見聞、体験をかなり詳細に書きとめている。