[郷村名(飛州志)]

 ここまで、飛騨の国絵図と飛騨地域の地図100枚を紹介したが、その中に記載してある飛騨の3郡とその中の郷、村数は時代を追って変容をしてきた。
 『飛州志』(註1)の本文2~4頁には、享保13年(1728)~延享2年(1745)頃における郷名の変遷と村数が記載されているので、比較検討のために抜粋して紹介する。村数について各絵図の端書にある数値と相違があり、村の統合、分村状況を調べる資料となろう。
 
飛州志巻第一
   郷並名数附所廃之郷名(三)
 
今所存之郷名二十四数あり。
 
○益田郡、下原郷、馬瀬郷、竹原郷、阿多野郷、小坂郷、萩原郷少府、上呂郷、中呂郷、下呂郷。
○大野郡、河内郷、久々野郷、川上郷、小鳥郷、白川郷、灘郷国府、大八賀郷、小八賀郷、三枝郷。
○吉城郡、古川郷小府、広瀬郷、吉城郷、小島郷、小鷹利郷、高原郷。
 
以上又所廃之郷名下に載す。但し是に限るべからず詳なるには及ばず。
 
○麻生郷廃、今益田郡、夏焼村、白山祠蔵大般若経後書云、応永廿三年願主益田郡麻生郷。
 
○上江郷、中江郷、下江郷廃、今益田郡、上呂郷、中呂郷、下呂郷の旧称なりと云う。同郡中呂村禅昌寺蔵大般若経後書云、応永十一年益田郡、中江野郷(按ずるに是中江郷なるべし野字は俗の猥りに加ふる助字か)
 
○徳永郷廃、大野郡、冬頭村東等寺蔵本尊裡書云、永正十一年、大野郡徳永郷。
 
○山口郷廃、大野郡、山口村了心寺本尊裡書云、永正十五年、大野郷山口郷。
○一宮郷廃、大野郡一宮祠慶長十三年の棟札に載てあり。
 
○富安郷廃、多古書に載てあり。
 
   村里之総数並枝村小名(四)
 
今所存一国の村数四百十四村也。其古数は分明ならず元禄年中検地のとき改正せられて載る処是也。
○枝村と云は村里毎にあるには非ず。一村の地続き或は山澗野地を隔たるの地に別名を称して本村に附属するもの也。
今世何村新田と云一例なり故に本村に等く民家建来れるあり。又人家廃して今は地名のみなるも間(ママ)あることなり。
 
○小名と云は多く民の宅地に付たる号也。元来の地名或は田畠の字と云にも非ず。たとへば往古鍛冶の住せし地は今の民其筋目に非ず。其職に与からねども鍛冶の何某と呼べり異名の類と謂つべき也。
 
   庄名有無(五)
 
本土凡て郷名を称し古今庄号なしと云へり。然るに大野郡八日町村秋声寺本尊裡書に大野郡川上庄とあり疑らくは誤ならん。此一寺のみにして其余悉く川上郷と云へり。
 
   田野総穀量附一郡之接属(六)
 
今世一国の総穀量四万四千二百六十七石余。
 
○所謂盆田郡は九郷百村、七千七百十石二斗二升一合。三千百三十余戸、一万六千九百六十余人也。州内の東南にして美濃、信濃の両州に接す。御嶽、騎鞍か嶽、川上(かおれ)か岳あり。州内に於ては寒気弱し。是濃州に接するが故也。然れども彼州の暖和には及ばず。猶御嶽、騎鞍か岳の麓に至りては寒冷霜雪尤甚し。名所あさむつの橋此郡中にあり。
 
○大野郡は九郷百三十六村、一万七千四十一石五斗二升六合。五千二百余戸、二万六千三百九十余人也。州内の中央にして国府を高山と云ふ。中央といへども西方へ長し。美濃、越前、加賀、越中、信濃の五州に接す。騎鞍か岳、川上か岳、三方崩か岳、十二か岳、鷲か岳、笈摺か岳、剣か岳、大日か岳ありて加賀の白山も是に続き立り寒気霜雪ともに益田郡よりは強し。名所位山此郡中にあり。
 
○吉城郡は六郷百七十八村、一万七千五百十五石五斗五升四合。四千九百五十余戸、二万三千八百二十余人也。州内の西方に寄りて東北西に周れり。信濃、越中の二州に接す。騎鞍か岳、鎗か岳、硫黄か岳、笠か岳、中の俣か岳、北の俣か岳、漆山か岳、白山か岳、金剛か岳、白木か峰ありて厳寒深雪の地なり。州内に於ても下山中といひ奥飛騨と云ふ。名所細江此郡中にあり。
 
※カタカナはひらがなに変換し、旧漢字は常用漢字に変換し、句読点を追記した。
 
註1 長谷川忠崇著 岡村利平編・解説『飛州志』
   飛騨資料 飛州志(誤字脱行訂正版)(明治42年6月28日 住広造 活字原本発行) 岐阜日日新聞社
   昭和44年10月20日刊行