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(1)はじめに

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 本書は、高山市内及び飛騨地方の街道、道路、集落などを対象に、歴史的背景や現在の状況を掲載したものである。
 
 本書の編集は、田中彰が行なった。掲載写真は高山市教育委員会が保有する写真データ、及び田中彰、山本純一撮影写真による。
 
 原稿の執筆は、第一~四章、第八章は田中彰が執筆し、第五~七章は林格男氏に古文書の読み下し、各史料における解説をお願いした。林氏の長年における飛騨の民衆にかかわる古文書研究の力量により、口留番所の物資流通の分析をいたたいている。深甚の謝意を表し御礼申し上げます。また、第六章の稲尾家文書は松井朗氏に古文書の読み下しをお願いした。
 
 史料の掲載にあたり、国土地理院から地形図、岐阜県歴史資料館から村絵図等、個人から国絵図の掲載許可をいただいた。また、朝日町甲(かぶと)の長瀬家から史料を、高根町日和田町内会から原家文書を、丹生川町個人から市文化財古文書を、丹生川町日面の個人から市文化財古文書についてそれぞれ閲覧調査の上掲載させていただいた。厚く御礼申し上げます。
 
 飛騨の道
  飛騨の街道の基礎を時代別に考えると次の区分に分けられる。
  ① 日本の国土が安定し、通行しやすい道路のルート候補ができた。尾根伝いの道、山岳をランドマークとした道、北極星などの天文を目安とした道、季節の北上または南下ラインの影響を受ける道など自然地形の制約と干渉によって道の候補が発生している。
  ② 旧石器~縄文時代の道
    飛騨には旧石器時代から縄文時代まで集落が発生し、集落間の交流はもちろん、広い範囲での交易が行なわれていた。それらのために道が開拓され、前述①の自然地形の中に交易ルートが確立していったのである。
    飛騨における縄文時代の遺物を見ると、土器や石器の形が、中部山岳・東海・北陸・関西地方の影響を受けていることがわかる。土器型式を丹念に分析すると、北陸系の土器を使っている集落が北から南へと宮川沿いにやってきたことがわかる。また信州系といわれる長野県の土器文化は乗鞍岳の北側あるいは南側の按部を通って飛騨へ流入した。このように縄文時代の土器文化流入の道はゆっくり集落間をつなぐ道路を伝わってきたルートであろう。
    一方、石器は松本市の「黒曜石」や下呂市の「下呂石」などがあり、飛騨の縄文集落へ石器の原材料が運ばれた道は、その石材の運搬量の高効率から直線的なルートにより運ばれたと推定されており、土器の伝播ルートとは異なると考えられている。
  ③ 古代の道には、飛騨匠の通った「東山道飛騨支路」が全国的に知られている。
    飛騨には古代の集落が多く造られているが、その集落間の道は縄文時代以来の道に加えて、新しい道が律令時代に開発されていったと思われる。
  ④ 中世の道は、鎌倉幕府に通じる道が「鎌倉街道」として伝承されている。しかし、その道は江戸時代の道とも重なるため、今後の検証が必要である。本編では鎌倉街道ルートは取り上げていない。
    戦国時代には、さらに多くの道が開かれている。その道は各地に展開した山城をつないでいる道であり、武士団や関係する人たちが往来した新しい政治経済の道とも言えよう。今もその道は里道として残っている。
  ⑤ 近世になると、金森氏が東西南北の街道を鎖国体制の中で再編成をした。
  本編では、この時代の街道を中心に紹介している。