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[日和田(ひわだ・高根町日和田)]

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 地名は山間の村であり、早霜のため収穫が乏しく、檜皮をはぎ取り、信州で売買し生計を立てていたことによるといい、余業として檜皮で火縄をなっていたと伝える(『斐太後風土記』)。寿永年中(一一八二~)、源義仲が木曽より当地に軍を進めたといわれ、また元亀年中(一五七〇~)には武田信玄の命を受けて飛騨に兵を進めた木曽義昌が土豪檜皮次郎左衛門に苦しめられたという。
 村高は「元禄検地帳」では十六石余、「天保郷帳」「旧高旧領」では三十石余。『国中案内』によれば村高十六石余・家数三十一軒。『後風土記』によれば家数五十三軒・人数三百四十人。
 産物は稗六十七石余・ソバ二十二石余・大豆七石余・小豆一石余・粟一石余・蕨粉十一石余・小白木六百束・檜皮・檜火縄七百五十把・蕨縄五百五十把・菅筵(すげむしろ)百五十枚・生馬四十五頭・熊二頭・熊肝二・猪十頭・山鳥二十二羽・雉子(きじ)十羽・岩魚三貫目。
 村の東方は山、西方は御岳、南方は小日和田へ十二町、北方は阿多野郷で一里半、高山へは十二里、御岳の裾野の字池の原には雌池・雄池の二つの池があった。日和田の集落より一里半の所にある雌池は樹木も生い茂り、四月にはオシドリ・カモなどが到来し、名勝地として知られた。また雄池には霊が住んでいるとして村民たちに恐れられた。
 明治のころまで当村と小日和田村では多くの馬が飼育され、毎年木曽福島の馬市に出されていた。馬の売買・取扱いをしていた「原家」は阿多野郷の大庄屋であった。(『岐阜県地名大辞典』)

1-1-(2)-5 日和田集落