街道の指定区域内に高札場・橋場・差手観音・雨乞平・幕の松・接待所跡・南無阿弥陀仏石・餅売場・比丘尼(びくに)屋敷・峠観音等の旧跡がある。
高山を出て最初の山越の美女峠は、もと益田郡と大野郡の境で郡上堺(ぐじょうげ)といわれ、それが「びじょうげ」→美女峠と変わったと言われ、また、この峠に伝わる八百比丘尼(やおびくに)の伝説からこう呼ばれるようになったのかもしれない。今この道は、車も通らず昔のままの静かな道で、四季の美しい眺望が楽しめる。
1-1-(3)-8 美女峠
江戸街道は飛騨と信州を結び、さらに鎌倉・江戸へ続く道として、国鉄高山本線が開通するまで、飛騨で最も重要な道の一つであった。また、山口町周辺には、鎌倉時代の古道があったらしく、「鎌倉街道」の地名が残っている。戦国時代、甲斐の武田氏が飛騨へ攻めに入ったとき、この道を使っているという。
江戸時代は、この街道が歴史の上で、最も価値を持ったときだった。金森氏、代官、郡代、そのほか公用の役人の往来のために、道の改修が行なわれ、宿場には伝馬が置かれた。一般の人々の旅もようやく盛んになり、善光寺参りの通り道になった。物の移動も盛んで、日本海でとれた魚は、塩漬けにして高山へ送られて来る。それから信州へ運ばれ、「飛騨ぶり」と呼ばれた。
明治になって飛騨は岐阜県に編入され、それまで江戸街道がもっていた「政治の中心につながる道」という性格は、ほとんどなくなってしまった。しかし、糸挽女工が岡谷へ行くために通ったことがよく知られ、高山線開通まではやはり大切な道だった。