明治二十八年、千町ヶ原の神秘な景観に驚喜して深く決するところがあり、以来約四十年、決死的努力を続け、ほとんど独力で、青屋口乗鞍登山道(約五里)を切り開いた。青屋村の入り口にあたる寺沢より一カ所に二対ずつ、五年の歳月をかけて道標を兼ねた仏堂八十八ヶ所を建立し、交通安全祈願の仏像一八〇余体を安置する偉業をついに完了した。
1-1-(3)-14 上牧太郎の石仏
霊峰乗鞍岳の名が広く天下に知られ、青屋口らの登山者が増加しつつあるのは実に太郎之助の功績に他ならず、昭和十年七月十九日中部山岳国立公園指定祝賀式が行なわれた際にはその功績をたたえ国立公園岐阜県協会長(知事)から感謝状に添えて山刀一口を贈られた。太郎之助は区長その他の公職にもついて郷土のために尽しつつあったが昭和十四年四月二十七日八十一才の高齢をもって大往生を遂げた。法名釋善以。
昭和五十四年、彼の偉業を後世に残すべきだとの声が地元青年団から持ち上がった。登山道の再開は果たせないまでも、積年にわたる落ち葉やクマザサに埋もれていた石仏四十数体の運び出しが行なわれたのである。その石仏は現在、交通安全祈願の地蔵尊として太郎之助生家近くに安置されている。現在も地道に石仏調査が行われている。(『ひだびとのあしあと』)