永瀬家文書その他によると伏見天皇のころ甲村に文作という者がいた(現永瀬演一の祖先)。常に剣道に志し諸国修行を企てて永仁元年(一二九三)二月二日家を出たまま行方不明となっていたが、仏道に入り高野山に登って髪を剃り釋常榮の法号を受けて日本六十六ヶ国を遍歴していたと三年後、飄然(ひょうぜん)郷に帰り、乾元元年(一三〇二)三月二日大往生を遂げた。彼に文左エ門・彌兵エ・彌七・小右エ門・喜右エ門・傳九郎・嘉七の七男あり、長子文左工門は父の遺骸と経書をここに埋め、七人の兄弟に擬して椹(さわら)の苗六本と桜一本を一つかみにしてその上に植え標とした。それが根元は一本となり七幹に分れて段々生長した。その内、桜は近代になって枯れたので伐り、椹のみ六幹となった…という。
現在根周り五間・各幹周四尺・高さ二〇余間の老大木となっている。
1-1-(3)-17 甲経塚