高山→中之宿七・五里→寄合渡十六里→
薮原二十一里→下諏訪三十一里
〈「哀史」とイメージが違う糸引き工女〉
※『ひだびとのあしあと』二六、二七頁から
- 中略 -
飛騨の娘たちは当時、糸引きに行くのが当たり前のようだった。一九一六(大正五)年、数え十五歳で信州へ糸引きに出た吉城郡上宝村蔵柱の女性は、「奥飛騨山郷生活文化の記録」(同村高齢者教室編)の中で、「娘たちは船津町(現神岡町)の宿に集まり一泊。翌朝三時に起きて身支度をし、着物、脚半とわらじ履きで検番を先頭に笹津まで約四十キロメートルの雪道を歩き、そこで一泊。次の日は軽便鉄道で富山まで出て、三日目の夜に工場に着いた」とつづっている。
当時の交通網からすれば当然であった。それから先はつらい糸引きの仕事が待っていたが、飛騨の娘たちは、「まめで働けるで幸せや」と感謝し、古里の父母を忘れず、日々の生活に喜びや楽しみを見いだし、前向きに生きてきた。
同じころ、信州へ糸引きに出た同郡上宝村宮原の女性は、「家の借金を子供心に何とかしたいと思ったんやな。手金を五円もらい、暮れに二百円持って帰ってきた。親は喜んで恵美須様に供えた。借金を返しに走った。暮れには反物ももらえた。給金は自分で使ったことは一度もなかった」と語られた。
一九二三年から福島県の製糸工場へ働きに行った同郡上宝村見座の女性(明治二十二年生まれ)は、「工場では皆さんがかわいがってくださるし、食べ物や待遇も家にいるよりよかった。週に一度おやつも出て、家の姉妹に分けてやりたいと思ったな。そのころの女の出稼ぎといえば糸引きか紡績工場でなかったろうか。上野清一郎村長さんは、女工組合をつくって女工を励ましたり、年に二、三度、謄写版で村の近況などを知らせてくださった。給金は一年目は五十円で、二年目には百円いただいた」と語る。
話をうかがっていると、「惨めで気の毒な生活」といった印象は感じさせず、自分で糸引きの仕事を選び、納得して生きてきた充実感が漂う。
飛騨の娘の糸引きは、明治、大正から昭和三十年代まで続く。戦後、中学校を卒業し、岐阜市や大垣市、一宮市の紡績工場へ集団就職した。施設や労働条件は改善されていたが、寄宿舎で寝起きし、早朝から深夜まで交代制で働く生活は決して楽ではなかった。しかしその中で古里の家に仕送りを続け、残った小遣いは結婚用にと貯金した。寸暇を惜しんでは習いごとに精を出し、定時制高校にも通った娘たちも多い。