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〈川上家〉(高山市上二之町)

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 寛文五年(一六六五)の金森頼直(よりなお)逝去を知らせる書状の宛名に、「川上長兵衛(光政)」の名があることから、それ以前より川上家は町代の一人であったと思われる。
 川上家の先祖は神岡(飛騨市)の江馬氏の流れを汲み、また金森家の家臣であったとも伝えられる。金森頼直の側室であった「りん」が、川上家へ嫁いだ際の持参品と伝えられるものもあり、金森家とは深いつながりをもっていた。
 二之町に居宅をもち、「肴万問屋(さかなよろずどんや)」として魚類を中心とした様々な商品の取引を家業としていた。いつ頃から魚取引を始めたのか不明だが、問屋としての営業を正式に免許されたのは元禄元年(貞享五年・一六八八)、四代善吉の時である。
 直轄地時代になっても、引き続き二之町村の町年寄役を仰せ付けられ、家業の肴万問屋も領主権力による保証のもとに、明治頃まで独占的に行なった。また、肴万問屋の冥加(みょうが・営業の特権に対するみかえり)として橋二ヵ所の普請を担当するようになった。
 明和八年(一七七一)、七代文質の時に大原騒動における年貢米江戸直納(えどじきのう)問題で、三之町村の町年寄・屋貝宅とともに居宅土蔵の打ち壊しにあっている。

1-1-(4)-5 川上魚問屋建物