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[万人講(桐生町)]

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 延宝三年(一六七五)数万の餓死者をここに埋めたので万人坑と呼び、後、万人講と書くようになった。天和元年(一六八一)盲人色都(いろいち)が餓死者の供養塔を建てた。
 笠のある大きな石塔は、水難除の祈りをこめて文化十四年(一八一七)法華寺日在が再建したもの、「南無三世諸仏」とある石塔は、寛政八年(一七九六)小八賀郷大谷村の荒川久治が雲竜寺存妙と謀り、大原騒動刑死者の霊を慰めるために建立した。

1-1-(4)-9 万人講