ビューア該当ページ

[飛騨の鉱山発見者 茂住宗貞]

44 ~ 45 / 289ページ
※『ひだびとのあしあと』より

 茂住宗貞は、飛騨の鉱山の発見、開発者といわれる。
 - 中略 -
 明治十四(一八八一)年、吉城郡神岡町東茂住の素封家柿下広業氏は、「この偉大なる功労者を顕彰したい」と宗貞の子孫の住む敦賀市を訪ね、『茂住宗貞略伝』を発行した。柿下説によれば、宗貞の飛騨での事績は、次のように要約できる。
 宗貞は元の名を糸屋彦次郎宗貞といい、天正十七(一五八九)年、飛騨を治める金森長近に鉱山発見、開発者として招かれ、茂住宗貞と名乗った。鉱山奉行となり、金銀の鉱脈を探りあて,和佐保銀山、茂住銀山(飛騨市神岡町)、蔵柱金山(高山市上宝町)を開発。後に金森の姓をもらい、現在の神岡町東茂住に三方に大きな石垣をめぐらし、二つのやぐらのある屋敷を構えた。屋敷内には毎日、生銀七駄(約二百八十貫=千五十キログラム)が積み込まれた時もあったといわれ、その跡には宗貞が開基した「金龍寺」が建つ。
 慶長十三(一六〇八)年長近が死ぬと、宗貞は身の危険を感じ、屋敷に火を放ち、金七駄(約五万八千三百両)を持って、越前敦賀へ退去した。姓を「打它」に変え、京極高次、酒井忠次に仕えて三百石を拝領した。寛永二十(一六四三)年に逝去。享年八十五歳だった。戒名は岸松院殿乾応宗貞大居士である。
 以上が柿下氏の『茂住宗貞略伝』の要約である。異説も多く、注釈として書かれているが、これらの説を証拠付けるものの多くは、敦賀市の戦災や金龍寺の焼失によって無くなった。
 現存している遺物で代表的なものは、打它家所属の一周忌に描かれた「宗貞画像」一幅(一六四四年)と柿下正道医学博士(広業氏の子)所蔵の「慶長四年横山の牛役請取状」である。
 - 中略 -
 金龍寺には「金森宗貞」の石碑と「平成四年五月、宗貞翁三百五十回忌奉賛記念、現住(打它)二十三世建立」の石碑が静かに並んでいる。