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〈飛騨細江を愛した姉小路基綱〉

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※『ひだびとのあしあと』より

 吉城郡古川町の沼町、太江、杉崎にまたがる山上に小島城がある。中世の南吉城を支配した国司姉小路家の山城跡とされる。平安時代末から飛騨の各所には都の公家・寺社の荘園が点在していた。白山長滝寺の川上郷、円城寺領の高原郷、高山盆地西の山科家領等が知られ、姉小路家の所領もその一つであった。
 姉小路家の直接支配は十四世紀前半に家綱が国司として任命され、もともとの所領古川盆地に城を構えたことに始まるとされる。南北朝の騒乱を経て姉小路家は、本家小島家、分家の古河・小鷹利両家に分立し戦国時代に至る。
 「ふるさとにのこる心はこゝろにて みハなほひなのミをなげくかな」と刻まれた歌碑が同町杉崎にある。歌は姉小路基綱の作である。基綱は都でも高名な歌人として知られていたが、所領の飛騨に下向し永正元(一五〇四)年四月二十三日に飛騨で没している。
 - 中略 -
 この碑は江戸時代の国学者田中大秀が、姉小路基綱を飛騨文学の祖として顕彰するため大秀六十歳の時、基綱の三百三十年忌を記念して霊祭を行ない建立したもので(実際には大秀死後明治になってから建立された)碑文には次のように記されている。
 『従二位権中納言姉小路公、諱(いみな)ハ基綱、小一条左大臣ノ裔(すえ)ナリ 世々飛騨国司に任ズ文亀ノ初メ任ヲ襲(つ)ギ飛騨吉城郡小島郷細江ニ居リ、細江漁叟卜号ス(中略)大秀凪ニ二公の風ヲ慕フ。(中略)古川ノ地ニ公ノ旧居ニ隣ルヲ以テ、その墳墓ヲ得ント欲シ、捜リ求ルコト年アリ シカモ未だ得ズ 困リテ一塚ヲ築キ遺稿ヲ瘞(ウズ)メ碑ヲ建テ、サキノ二歌ヲソノ面ニ勒シ(ホリキザムの意)、以テ奉祀スト云フ』(二公とは基綱・済継親子を指す)。
 大秀は姉小路の墓と伝えられる個所を捜し求めたが断定できるものはなく、ついにわからなかったとしている。細江とは太江川が宮川に合流するまでの湿地帯で、川が細くなったり太くなったりしている所。カキツバタが咲き、四季を通じて水鳥が多いところであり、この歌碑が所在する地点から西に広がる地域であろう。
-中略-

1-1-(5)-7 姉小路歌碑