歓喜寺は、照蓮寺第十三世の宣明の二男が開基である。この宣明は、金森長近に請われて荘川村中野から高山へ移った高僧で、現在の別院の場所に照蓮寺を建てた。高山での照蓮寺初代住職が宣明であるが、跡は長子宣了が継いだ。宣了の弟が明了(治部卿ともいう)であり、歓喜寺の開基である。
高山での照蓮寺二代目(十四世になる)の宣了には男子がなく、一人娘のおなけに金森第三代重頼の三男式部卿従純を養子としていたが、おなけが死んだので、京都東本願寺宣如にたのんで三女の佐奈姫を嫁にもらい受けた。式部卿は宣心と名のり、十五世となる。
明了は、高山照蓮寺二代目宣了と不仲で、さらに甥である十五世の宣心とも心が合わず、圧迫を受け続け、不遇の扱いを受けた。宣了は狂態多く、明了は従順であった。金森家からの養子である宣心は、藩主の弟で武士の生まれであり、照蓮寺の血を引く明了はじゃまな存在であったという(『大八賀村村史』)。
そこで、慶安元年(一六四七)、明了は姉の嫁ぎ先である越中八尾の聞名寺へと逃れた。その後、金森氏第四代頼直のはからいで明了は高山へ戻り、しかし宣心との折り合いが悪く、三福寺の地に空いていた小庵(大雄寺の隠居所)に入った。頼直は、本堂を建立してこれを明了に与え庇護したが、宣心の迫害は止まらず、八尾の聞名寺を介して西本願寺へ転派したので一層宣心との関係が悪くなったという。宣心の子、孫ともに出来が悪く、孫の一乗(十七世)の時には、照蓮寺は東本願寺直轄の別院になってしまう。一方、明了は貧しくとも仏法をよくし、門徒に敬われた。明了の孫で、古川町の円光寺住になった浄明は『岷江記』を著わし、高山照蓮寺の内紛を暴露していることから批判されてしまった。
松本町の松亭跡にある宣心、佐奈姫の墓は市の史跡に指定されている。明了が身を寄せた八尾の聞名寺は、願智坊が開基した。十三世紀に美濃から小坂町福応寺、神岡町吉田常蓮寺と飛騨に二寺を残して、八尾に聞名寺の基礎をつくったのである。金森氏、前田氏との関係を持ち続け、歓喜寺明了ともつながりを持つ聞名寺は、風の盆で毎年人々を集める。風の盆は聞名寺が飛騨から踏襲してきた仏事である。
1-1-(5)-18 別院(昭和10年代)
参考文献 『飛騨三十三観音霊場めぐり』飛騨三十三観音霊場会編集
飛騨三十三観音霊場会事務局発行 二〇〇五年十月二十五日